第19話 対面
ローデルの朝は、静かに始まった。
前夜の異変が嘘のように、空は淡く晴れている。
北の稜線には薄い雲がかかり、見張り台の旗は弱い風に揺れていた。
ただし、拠点の空気までは戻っていない。
北柵の一部はまだ修復途中だった。
焦げた火桶が脇へ寄せられ、白靄を浴びた布や道具は広場の端で分けられている。
地面には、洗い流しきれない白い粉が薄く残っていた。
誰も大声では騒がない。
けれど、皆が昨日の出来事を忘れていない。
異形が来たこと。
白靄が柵前まで迫ったこと。
そして、それがローデルの内側へ本格的に入り込む前に止まったこと。
セレネは詰所の奥で、椅子に座っていた。
体調は悪くない。
少なくとも、動けないほどではない。
ただ、肺の奥に薄い痛みが残っている。深く息を吸うと、白靄を掠めた時の乾いた感覚がまだ戻ってくる。脚も重い。昨日、最後に核へ踏み込んだ時の負荷が、今になって身体の底へ沈んでいるようだった。
今の身体は、やはり昔の感覚とは違う。
そう思って、セレネは小さく息を吐いた。
昔。
その言葉だけは、自然に浮かぶ。
だが、その中身はいつも霧の向こうだ。
戦い方は分かる。
流れの見方も分かる。
白靄のようなものを前にした時、どう動けばいいのかも、身体より先に判断が出る。
それなのに、誰とどこで何をしていたのかは、うまく掴めない。
手を伸ばせば届きそうで、触れる前に消える。
そんなものばかりだった。
「セレネ」
ミレアが扉を開けて入ってきた。
昨日より顔色は戻っているが、目元にはまだ疲れがある。
それでも、立ち方はいつものミレアだった。
「起きてた?」
「寝ているように見えたか」
「目は開いてたけど、考えごとしてる顔だった」
「なら、起きている」
「あなたの基準は信用しないことにしてる」
ミレアは軽く肩をすくめ、それから少しだけ表情を改めた。
「記録保全局の人が、あなたと話したいそうよ」
「フィリーネ、だったか」
「ええ。フィリーネ・エルディア。昨日到着した人」
「偉いのか」
「少なくとも、アシュレイよりは上ね。あのアシュレイが露骨に姿勢を正してたもの」
「分かりやすいな」
「でしょう」
そう言ってから、ミレアは少し声を落とした。
「無理そうなら、今日は断れる」
「断れるのか」
「私が断る」
「強いな」
「あなた相手に鍛えられたから」
セレネは少しだけ目を細めた。
「問題ない。話す」
「本当に?」
「ああ」
「息は」
「浅いが、支障はない」
「それを支障って言うのよ、普通は」
ミレアは眉を寄せたが、それ以上は止めなかった。
「同席するわ。アシュレイもいる」
「尋問か」
「面会よ。表向きは事情確認」
「表向き」
「ええ、表向き」
その言い方に、セレネはわずかに視線を上げた。
「裏があるのか」
「あるでしょうね。少なくとも、あの人は昨日の痕跡を見てから、何かを考えている」
「私のことか」
「たぶん」
ミレアは隠さなかった。
それがありがたいのか、面倒なのか。
セレネには判断しづらかった。
外から人が来ることは予想していた。
昨日の戦いを見れば、聞きたいことがあるのも当然だ。
だが、フィリーネという名を聞いた時から、胸の奥に小さな引っかかりがあった。
知っている名ではない。
少なくとも、思い出せない。
記憶の中に、はっきりとその名があるわけではない。
それなのに、完全に知らないものとして流せない。
セレネは自分の胸元に、ほんの少しだけ意識を向けた。
痛みではない。
違和感でもない。
何かが、遠くで身じろぎしている。
「行くぞ」
セレネは立ち上がった。
ミレアがその動きを見て、少しだけ安心したように頷いた。
◇
面会は、詰所の隣にある小さな会議室で行われた。
広い部屋ではない。
中央に古い卓があり、椅子が四つ。壁際には地図と帳面が積まれ、窓からは北柵の一部が見える。
フィリーネは、先に席についていた。
淡い色の外套を整え、背筋を伸ばして座っている。
年齢は、セレネより明らかに上だ。落ち着いた所作と静かな目が、ただの確認役ではないことを示していた。
隣にはアシュレイが立っている。
いつもの記録板を持ってはいたが、今日の表情は少し硬い。
セレネが部屋に入った瞬間、フィリーネの視線がこちらへ向いた。
その目と合った。
セレネは、足を止めなかった。
止めなかったが、胸の奥が一拍遅れて痛んだ。
知らない女のはずだった。
名を聞いても、顔を見ても、セレネの中に明確な答えは浮かばない。
記憶の棚を探っても、そこに「フィリーネ」という名札は見つからない。
それなのに、その目を見た瞬間だけ、何かが薄い布の向こうで動いた。
懐かしい、とは違う。
思い出した、でもない。
ただ、何もないわけではない。
「セレネ」
ミレアの声で、意識が戻る。
セレネは席の前に立った。
「ローデル仮拠点所属、という扱いでよいのか」
フィリーネが静かに言った。
声を聞いた瞬間、胸の奥の痛みがもう一度だけ遅れて来た。
セレネはそれを表情に出さないようにした。
「所属というほどではない。拾われて、置かれている」
「なるほど」
フィリーネは頷いた。
その反応は穏やかだった。
だが、目だけはわずかに揺れているように見えた。
「北方旧戦域記録保全局のフィリーネ・エルディアです。昨日の北側異変について、いくつか確認させてください」
「答えられることなら」
「それで構いません」
フィリーネの声は丁寧だった。
丁寧すぎるほどに。
セレネは椅子に座る。
ミレアが隣に座り、アシュレイはフィリーネ側に控えたまま記録板を開いた。
短い沈黙が落ちる。
フィリーネはすぐには質問しなかった。
目の前の少女を観察している。だが、不躾ではない。
むしろ、触れれば壊れるものに近づくような慎重さがあった。
それが、少しだけ気になった。
「まず、体調は」
フィリーネが訊いた。
「問題ない」
「白靄を吸ったと聞いています」
「多少だ」
「多少で済ませてよいものではありません」
「動ける」
「動けることと、問題がないことは別です」
その言い方に、セレネは一瞬だけ言葉を失った。
責められているわけではない。
だが、妙に聞き覚えのある調子だった。
無理をする者へ、何度も同じことを言ってきた者の声。
誰に向けて。
いつ。
どこで。
掴めない。
「……気をつける」
セレネが答えると、フィリーネの目がわずかに細まった。
「そうしてください」
その返答もまた、静かだった。
◇
「昨日の処理について確認します」
フィリーネは卓上に地図を広げた。
アシュレイが昨夜まとめたものだろう。
北柵、監視小屋跡、遺構外縁、白靄の流れ、排水溝、核が露出した場所。印は細かく、しかし分かりやすかった。
「あなたは、白靄の流れを封鎖せず、誘導しました」
「ああ」
「なぜ、塞がなかったのですか」
問いはまっすぐだった。
セレネは地図を見る。
答えは簡単だ。
塞げば破れる。
流れを殺すなら、逃げ道が必要だ。
それは分かる。
ただ、なぜ分かるのかは分からない。
「塞げば、裂ける場所を選べなくなる」
セレネは言った。
フィリーネの指が、地図の端で止まった。
「……場所を選べなくなる」
「奥から押されていた。入口だけを潰せば、別の弱い場所が破れる。ローデル側で破れれば守るものが多すぎる」
「だから、先に逃げ道を作った」
「そうだ」
「逃がして、細らせて、最後に折る」
「……ああ」
セレネは少しだけフィリーネを見た。
今の言い方は、昨日の自分のものに近い。
だが、ただ繰り返しただけではない。フィリーネはその手順を理解している。
少なくとも、言葉の表面だけを追っているのではない。
「その考え方を、どこで学びましたか」
フィリーネが訊いた。
アシュレイの筆が止まる。
ミレアも黙っている。
セレネはすぐには答えなかった。
どこで。
戦場で。
そう答えることはできる。
だが、それは説明にならない。
誰かに教わったのか。
自分で覚えたのか。
誰かへ教えたのか。
霧の向こうに、地図を広げた卓が見える気がした。
黒い手袋をした手。
赤い印のついた古い地形図。
声を潜める兵たち。
誰かが隣で、静かにこちらを見ている。
その顔は見えない。
セレネは目を伏せた。
「分からない」
「分からない?」
「覚えている、とは言えない。ただ、そうするべきだと思った」
フィリーネの息が、ほんのわずかに止まった。
目に見えるほどではない。
けれど、セレネには分かった。
今の言葉が、何かに触れたのだ。
「そうするべきだと思った、ですか」
「ああ」
「それは、昨日初めて思いついたことではありませんね」
「たぶん違う」
「たぶん」
「記憶は曖昧だ。だが、判断は残っている」
自分で口にして、セレネはその言葉の重さに気づいた。
記憶は曖昧。
判断は残っている。
それは、今の自分の状態を思った以上に正確に表していた。
フィリーネは静かにセレネを見ていた。
その視線には、詰問の鋭さはない。
だが、逃がさない強さがある。
「あなたは、自分が何者かを覚えていますか」
ミレアがわずかに身じろぎした。
アシュレイも顔を上げる。
セレネは答えに詰まらなかった。
詰まるほど、答えは多くなかった。
「セレネだ」
「それ以前は」
「……はっきりとは」
「名前も?」
「ある気はする」
フィリーネの目が揺れた。
セレネは続けた。
「だが、掴もうとすると遠い。戦い方は分かる。術の見方も、敵の崩し方も、場の流れも分かる。だが、それをどこで誰と使っていたのかは、霧の向こうだ」
部屋の空気が静かになった。
説明しすぎたかもしれない。
だが、ここは曖昧に流すべきではない気もした。
フィリーネの目の奥にあるものが、セレネの胸をざわつかせる。
この女は、何かを知っている。
あるいは、知ろうとしている。
そして、セレネ自身もまた、その何かから完全には逃げられない。
「そうですか」
フィリーネはそれだけを言った。
短い言葉だった。
けれど、そこに含まれたものは多すぎた。
◇
フィリーネは、手元の地図を見つめながら自分の呼吸を整えていた。
目の前の少女は、知らない顔をしている。
銀白の髪。
淡い瞳。
小柄な身体。
まだ年若い、少女の輪郭。
ヴァレンではない。
少なくとも、かつてフィリーネが知っていた姿ではない。
それでも、言葉の端が重なる。
塞げば、裂ける場所を選べなくなる。
ただ、そうするべきだと思った。
記憶は曖昧だが、判断は残っている。
どれも、偶然で片づけるには鋭すぎた。
彼なら、そう言ったかもしれない。
そう考えた瞬間、フィリーネは自分の内側を強く押さえた。
まだ早い。
ここでその名を出してはいけない。
目の前の少女は、確かに揺れている。自分の過去を完全には掴めていない。そこへ無理に名を差し込めば、何かを壊すかもしれない。
求めている答えに近づいたからこそ、慎重でなければならない。
「もう一つ、確認させてください」
フィリーネは言った。
「北の遺構を見て、何か思い出したことはありますか」
セレネは少しだけ眉を寄せた。
「思い出した、とは言いづらい」
「では、感じたことでも構いません」
「古い傷口のようだと思った」
「傷口」
「あれは壊れた場所ではない。閉じ損なった場所だ。何かを閉じ込めたまま、時間だけが経ったような……そんな感じがした」
アシュレイが筆を走らせる音がする。
フィリーネは視線を落とした。
閉じ損なった場所。
まただ。
ただの感覚として片づけるには、表現が近すぎる。
「その見立ては、記録保全局の分類とも一部一致します」
フィリーネは言った。
「そうなのか」
「ええ。北側遺構群には、過去の戦域封鎖に関わる痕跡が複数残っています。ただし、詳細な機能は失われています」
「失われたものは、失われた理由がある」
「あなたは、そう考えますか」
「残すべきものなら、誰かが残す。残らなかったものには、残せなかった理由か、残すべきではなかった理由がある」
フィリーネは黙った。
その言葉に、古い影が重なる。
かつて、同じようなことを言った人がいた。
失われた術式を追う学者たちを前にして、彼は静かに言った。
残っていないものを掘り返す時は、残さなかった者の恐れも拾え、と。
目の前の少女は、それを知らないはずなのに。
「フィリーネ様」
アシュレイが静かに声をかける。
フィリーネは瞬きをした。
少し、沈みすぎていた。
「失礼しました」
「いや」
セレネが言う。
「そちらこそ、顔色が変わった」
「そう見えましたか」
「少しな」
「……あなたは、よく見ていますね」
「そうしなければ死ぬ場所にいた気がする」
また。
また、彼女は無意識に言う。
フィリーネは、指先に力が入るのを隠すように、地図をそっと閉じた。
「今日の確認は、ここまでにしましょう」
「もういいのか」
「あなたの体調もあります。続きは日を改めます」
「私なら平気だ」
「平気でも、休むべき時があります」
セレネがわずかに黙る。
その反応が、なぜか少し幼く見えた。
「……分かった」
「ありがとうございます」
フィリーネは頭を下げた。
記録保全局の者としては、丁寧すぎる礼だったかもしれない。
だが、そうせずにはいられなかった。
◇
面会が終わり、セレネはミレアと共に部屋を出た。
廊下へ出た瞬間、肺の奥に溜まっていた息を細く吐く。
緊張していたのだと、そこで初めて気づいた。
「大丈夫?」
ミレアが訊いた。
「ああ」
「今の“大丈夫”は、どのくらい信用していい?」
「半分くらい」
「ずいぶん正直ね」
ミレアは少しだけ笑ったが、すぐに表情を戻した。
「何か思い出した?」
「いや」
「本当に?」
「明確には」
セレネは廊下の窓から外を見る。
北柵の向こう、昨日の戦場が朝の光に照らされていた。
「思い出したわけではない」
「でも、何かあったのね」
「……何もないわけではない」
そう答えると、ミレアはそれ以上問い詰めなかった。
ありがたかった。
セレネ自身にも、うまく説明できない。
フィリーネの声。
目。
言葉を選ぶ間。
こちらの無理を、静かに咎めるような調子。
すべてが初めてのはずなのに、胸の奥に引っかかる。
懐かしいとは言えない。
親しいとも言えない。
それでも、ただの他人として遠ざけるには近すぎる。
「変な女だ」
セレネは呟いた。
「フィリーネさん?」
「ああ」
「向こうも、あなたのことをそう思ってそうね」
「だろうな」
ミレアは小さく息を吐いた。
「少し休みなさい。午後は北側確認もあるけど、あなたは今日、前に出さないから」
「必要なら出る」
「必要にしないようにするの」
「難しいことを言う」
「あなたほどじゃないわ」
そのやり取りで、少しだけ息が楽になった。
◇
会議室には、フィリーネとアシュレイだけが残っていた。
地図は閉じられている。
記録板には、今の面会内容が丁寧に書き込まれていた。
だが、そこに残せないものが多すぎる。
フィリーネはしばらく黙っていた。
アシュレイも、急かさない。
彼もまた、先ほどの会話に含まれていたものを理解しているのだろう。完全ではないにせよ、少なくとも通常の事情聴取ではなかったと分かっている。
「アシュレイ」
「はい」
「あなたの率直な所感を聞かせてください」
「記録としてですか」
「いいえ。今は、あなた自身の目で見たものとして」
アシュレイは少しだけ考えた。
「彼女は、自分の過去を明確には覚えていません」
「ええ」
「ですが、判断だけが異常に残っています。戦闘技術というより、戦場処理の経験です。昨日もそうでしたが、彼女は敵の強さよりも、場の構造を先に見ます」
「今の時代のものではない」
「はい」
アシュレイは一度言葉を切る。
「ただ、誰かまでは分かりません」
「それで構いません」
「ですが、フィリーネ様は……」
そこで彼は言葉を止めた。
踏み込んでよいか迷ったのだろう。
フィリーネは静かに首を振った。
「まだ、口にする段階ではありません」
「承知しました」
「彼女にも、こちらにも、材料が足りません。それに、急げば壊す可能性があります」
「壊す」
「人の記憶は、記録紙とは違います。欠けた部分に無理に文字を差し込めば、別のものになることがあります」
アシュレイは黙って頷いた。
フィリーネは窓の外を見た。
先ほどの少女の姿はもうない。
だが、銀白の髪が朝の光に浮かんでいた光景だけが、目に残っている。
知らないはずの少女。
けれど、あまりにも多くのものを残している少女。
「フィリーネ様」
「何ですか」
「ローデルには、どの程度滞在されますか」
「まだ決めていません」
そう答えてから、フィリーネは少しだけ目を伏せた。
「いいえ。訂正します」
「はい」
「しばらく滞在します。表向きは北側遺構の再調査と、昨日の異常処理の記録確認。そのための滞在です」
「表向きは」
「ええ」
アシュレイは、それ以上聞かなかった。
フィリーネは閉じた地図の上に、そっと手を置いた。
対面は終わった。
だが、答えにはまだ届いていない。
届きかけているからこそ、急いではならない。
あの名を呼ぶには、まだ早い。
◇
その日の昼過ぎ、セレネは広場の端で水を飲んでいた。
カイルが隣へ腰を下ろす。
「偉い人、どうだった?」
「変な女だった」
「それ、ミレアさんから聞いた」
「広まるのが早いな」
「ローデル狭いからな」
カイルは軽く笑ったが、すぐに少し真面目な顔をした。
「怖かったか?」
「なぜそう思う」
「いや、何か……昨日の靄とか異形とは違う意味で、顔が疲れてる」
「分かるのか」
「分かるよ。最近ちょっとは」
セレネは水の入った器を見下ろした。
「怖いというより、落ち着かない」
「偉い人だから?」
「それもある」
「他は?」
「分からない」
カイルは少しだけ黙った。
そして、珍しく軽口を挟まずに言った。
「分からないこと、多いな」
「ああ」
「でも、昨日よりは少し分かったのか?」
「何もないわけではない、ということは分かった」
「何だそれ」
「私にも分からない」
カイルは困ったように笑った。
「まあ、分からないなら仕方ないか」
「雑だな」
「難しいことはミレアさんとアシュレイさんと偉い人に任せる。俺は、昨日みたいな時に自分の場所を間違えないようにする」
「それでいい」
「だろ?」
カイルは少し得意げに笑った。
その表情に、セレネは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
変な女。
揺れる記憶。
胸の奥の痛み。
それらは消えない。
だが、ローデルにはこういう雑な明るさもある。
それは今のセレネにとって、案外悪くなかった。
◇
夕方、フィリーネは自室として用意された小部屋で、一人記録を整理していた。
机の上には、三つの資料が並んでいる。
アシュレイの報告。
北側異常の痕跡図。
そして、今日の面会記録。
彼女は新しい紙を一枚取り出し、そこに静かに名を書いた。
セレネ。
今、目の前にいる少女の名。
筆先は、その横で止まった。
別の名を書こうとして、止まる。
まだ書いてはいけない。
そう判断したのは理性だった。
けれど、書きたいと思ったのは感情だった。
フィリーネは筆を置き、目を閉じる。
声が残っている。
記憶は曖昧だが、判断は残っている。
その言葉が、ずっと耳の奥に残っていた。
やはり、と思う自分がいる。
違っていてほしい、と思う自分もいる。
そして、もしそうならどうすればいいのか分からない自分もいる。
長い時間を越えて、答えが少女の姿で現れたのだとしたら。
それは奇跡なのか。
罰なのか。
それとも、まだ終わっていない戦いの続きなのか。
フィリーネは目を開ける。
紙の上には、ただ一つの名だけが残っている。
セレネ。
彼女はその名を見つめ、静かに呟いた。
「……まだ、届きませんね」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
窓の外では、ローデルの夜が降り始めている。
北の山は静かだった。
だが、静けさの奥に残された答えは、まだ消えていなかった。