第20話 名前にはまだ届かない

 ローデルの北側は、静かだった。

 昨日までの白靄は、もう見えない。
 監視小屋跡へ続く道にも、異形の影はない。
 風は山肌を撫で、薄い雲をゆっくりと東へ流している。

 ただ、地面にはまだ白い粉が残っていた。

 石の隙間。
 折れた見張り杭の根元。
 古い排水溝の縁。
 そして、核を折った狭い空き地。

 それらは、戦いが終わったことではなく、戦いが確かにあったことを示していた。

 フィリーネは北柵の外に立ち、静かにその痕跡を見ていた。

 隣にはアシュレイがいる。
 ミレアは少し離れた場所で見張りたちに指示を出していた。北側確認の人員は最小限。無理に奥へ入らず、監視道の手前までを確認するだけに留めている。

 妥当な判断だった。

 異変は止まった。
 だが、完全に終わったとは言えない。

「残留濃度は昨日より大幅に低下しています」

 アシュレイが測定具を見ながら言った。

「ただ、遺構外縁側にはまだ反応があります。今すぐ噴出する兆候はありませんが、監視は継続すべきです」
「そうですね」

 フィリーネは頷いた。

 視線は、狭い空き地の中央に向いている。

 核が潰れた場所。
 昨日、セレネが最後に接続を断った場所。
 そこには黒く湿った跡と、白い粉が混じり合うように残っていた。

 普通なら、討伐跡はもっと荒れる。

 力で焼き払えば焦げる。
 斬り伏せれば血や体液が散る。
 術で吹き飛ばせば、地面ごと抉れる。

 だが、ここは違う。

 壊したというより、流れの支えだけを外した跡だった。

 無駄が少ない。
 あまりに少ない。

「昨日の処理を、改めてどう見ますか」
 フィリーネが訊いた。

 アシュレイは少し考えた。

「現場で見た以上、偶然とは言えません」
「ええ」
「彼女は、核そのものを最初から狙っていたわけではありません。先に流れを整え、核が露出する条件を作った。異形を倒すのではなく、異常が姿を見せざるを得ない状況へ追い込んだ」
「戦場を作った」
「はい」

 アシュレイはそこで一度言葉を切った。

「言い換えるなら、彼女はこの場を、即席の処理場に変えました」
「処理場」
「本来であれば、専門部隊が封鎖具と観測具を持ち込んで、数日かけて行うようなことです。もちろん規模は小さい。応急処理です。ですが、判断の方向性が……」

 彼は言葉を探すように眉を寄せた。

「古すぎます」

 フィリーネは目を細めた。

「古い、ですか」
「はい。失伝したというより、今の体系に整理される前のものに見えます。名前を付ける前の技術、と言えばいいのでしょうか」
「よく見ていますね」
「見せられましたから」

 アシュレイの声には、わずかな苦さがあった。

「正直に申し上げれば、私は昨日、現場で何度も遅れました。理屈を理解する前に、セレネさんの指示で状況が動いていった。記録する者としては、悔しいほどです」
「それでも、あなたはよく対応しました」
「ありがとうございます。ですが、彼女は……」

 アシュレイは北の空き地を見る。

「あの方は、今の時代の判断ではありません」

 その言葉は、昨日と同じだった。
 けれど、今日はさらに重みを持っている。

 フィリーネは静かに息を吐いた。

 今の時代の判断ではない。

 それは、アシュレイが到達できる最も正確な表現なのだろう。
 そして、彼はそこから先をまだ知らない。
 知らなくていい。

 少なくとも、今は。

「アシュレイ」
「はい」
「ローデルへの滞在を延長します」
「正式に、ですか」
「ええ。北側遺構の再調査、昨日の異常処理の記録保全、残留白靄の経過観測。それらを理由とします」
「承知しました」

 アシュレイはすぐに頷いた。

 理由は足りている。
 むしろ、十分すぎる。

 北側の異変は、記録保全局が関与するに値する案件だ。
 そこにフィリーネ自身が滞在しても、不自然ではない。

 けれど、理由はそれだけではなかった。

 彼女は、セレネを見極めなければならない。

 あの少女が何者なのか。
 何を覚えていて、何を忘れているのか。
 そして、あの名に届かせてよいのか。

 急げば壊れる。

 そう思った。

 けれど、放置すれば遠ざかる。

 それもまた、分かっていた。

     ◇

 セレネは広場の端で、修復作業を眺めていた。

 北柵の損傷は大きくない。
 だが、昨日半開きにした箇所と、異形が爪をかけた部分は補強が必要だった。見張りたちが木材を運び、釘を打ち、火桶の位置を変えている。

 カイルもその中にいた。

 槍ではなく木材を抱え、あちらへ走り、こちらへ呼ばれ、時々ミレアに怒られている。

「そこじゃない、カイル。長さを見て」
「見てる!」
「見てたら間違えない」
「厳しい!」

 いつもの調子だ。

 昨日、あれほどのものを見たというのに、ローデルはもう動いている。
 恐怖が消えたわけではない。
 ただ、恐怖を抱えたまま手を動かしている。

 それは悪くない。

 セレネはそう思った。

「休めと言ったはずだけど」

 背後からミレアの声がした。

 振り向くと、彼女が帳面を片手に立っている。

「座っている」
「外にいる時点で休みとしては減点」
「細かい」
「昨日のあなたを見た後なら、細かくもなるわ」

 ミレアは隣へ腰を下ろした。

 しばらく、二人で作業を眺める。

「息は?」
「昨日よりはいい」
「胸は痛む?」
「深く吸うと少し」
「午後の確認には出さないわよ」
「必要なら」
「必要にしない」

 昨日と同じやり取りだった。

 だが、今日はミレアの声が少し柔らかい。

「フィリーネさん、しばらくローデルに残るみたい」
「そうか」
「驚かないのね」
「理由はある」
「北側遺構の調査?」
「表向きは」
「あなたもそれ言うようになったのね」

 ミレアが苦笑する。

 セレネは北柵の向こうを見る。

 フィリーネ。

 その名を心の中でなぞってみる。

 何も浮かばない。
 昨日の面会と、あの静かな声だけがある。

 けれど、まっさらではない。

 名前の奥に、何かが沈んでいる。
 沈んでいるのに、指先が届かない。

「気になる?」
 ミレアが訊いた。

 セレネは少しだけ考えた。

「気になる、という言葉が近いのか分からない」
「じゃあ、どんな感じ?」
「遠いものが近くにある」
「難しいわね」
「私もそう思う」

 ミレアは帳面を閉じた。

「怖い?」
「分からない」
「またそれ」
「便利な言葉だな」
「あなたが使うと、便利というより本当に分からないんでしょうね」

 セレネは否定しなかった。

 怖いのかもしれない。
 だが、昨日の異形や白靄に感じたものとは違う。

 敵ならば分かりやすい。
 倒すか、避けるか、流すか、折るか。
 状況に合わせて判断すればいい。

 けれど、フィリーネは敵ではない。

 少なくとも、セレネの中のどこかが、そう判断している。

 それが厄介だった。

「ミレア」
「何?」
「もし、忘れているものが戻るとして」
「うん」
「それは良いことなのか」

 ミレアはすぐには答えなかった。

 広場では、カイルが木材の向きをまた間違え、見張りの一人に笑われている。
 その音が少し遠く聞こえた。

「戻るものによるんじゃない」
「そうか」
「良い記憶もあるでしょうし、悪い記憶もある。思い出して助かることもあれば、苦しくなることもある」
「なら、戻らない方がいいものもある」
「あると思う」

 ミレアは静かに言った。

「でも、戻らないせいで苦しいものもあると思うわ」

 セレネはその言葉を聞いて、胸の奥に小さな重さを感じた。

 戻らないせいで苦しいもの。

 それは、少し分かる気がした。

 思い出せないから平気なのではない。
 思い出せないものが、確かにそこにあると分かってしまったから落ち着かない。

 フィリーネの声を聞いてから、その感覚は強くなっていた。

「あなたが今すぐ全部を思い出す必要はないと思う」
 ミレアは続けた。
「でも、知らないままでいたいのか、知りたいのか。それはいつか決めることになるかもしれない」

 セレネは目を伏せた。

「私は、知りたいのか」
「それは私に聞かれても困る」
「そうだな」
「でも、今の顔を見る限り、知らないふりを続けるのは難しそう」

 そう言われて、セレネは少しだけ眉を寄せた。

「そんな顔をしているか」
「してる」
「便利な言葉だ」
「ええ。あなたに教わったから」

 ミレアは軽く笑った。

     ◇

 午後、北側の確認が行われた。

 セレネは同行を許されなかった。
 代わりに、フィリーネ、アシュレイ、ミレア、見張り二名が監視道の手前までを確認することになった。

 カイルも行きたがったが、ミレアに却下された。

「俺、昨日ちゃんと持ち場守っただろ」
「守ったから今日は休むの」
「納得いかない」
「納得しなさい」

 結局、カイルはセレネの隣に座ることになった。

「何で俺まで留守番なんだ」
「必要にしないためだろう」
「それミレアさんの言い方」
「便利だから借りた」
「便利な言葉多いな、この拠点」

 カイルは不満そうに足を投げ出した。

 だが、少ししてからぽつりと言った。

「昨日さ」
「ああ」
「俺、前に出なかった」
「そうだな」
「出たかった」
「分かっている」
「でも、出なかった」
「ああ」
「それで良かったんだよな」

 その問いは、軽口ではなかった。

 セレネは少しだけカイルを見る。

 彼は前を向いたまま、北柵の修復を眺めている。
 手は膝の上で握られていた。

「良かった」
 セレネは答えた。
「お前が持ち場を崩していたら、流れが乱れていた」
「本当に?」
「本当だ」
「慰めじゃなく?」
「私は慰めが得意に見えるか」
「見えない」
「なら本当だ」

 カイルは少しだけ笑った。

「それ、ひどいけど納得できるな」
「そうか」
「じゃあ、次も持ち場守る」
「そうしろ」
「でも、いつかは外でも役に立ちたい」
「なら、今は生きて覚えろ」
「また先生みたいなこと言う」
「たまにはな」

 カイルは空を見上げた。

「セレネってさ」
「何だ」
「あのフィリーネって人と、何かあるのか」
「分からない」
「即答だな」
「分からないものは分からない」
「でも、何もないわけじゃないんだろ」

 セレネは黙った。

 昨日、ミレアにも似たようなことを言った。

 何もないわけではない。

 それは、セレネ自身がようやく掴んだ言葉だった。

「たぶんな」
「そっか」

 カイルはそれ以上、深く聞かなかった。

 意外だった。

「聞かないのか」
「聞いても分からないんだろ」
「そうだな」
「じゃあ、分かったら聞く」
「雑だな」
「これくらいでいいんだよ。難しい話は大人に任せる」
「お前もだいぶ大人に近いだろう」
「今のはちょっと褒めてる?」
「少しだけ」
「珍しい!」

 カイルがわざとらしく驚く。
 セレネは、ほんの少しだけ目を逸らした。

 こういうやり取りは、楽だ。

 フィリーネの声を思い出す時のように、胸の奥が痛むことはない。
 ミレアに問われた時のように、自分の内側を覗き込まれる感じもない。

 ただ、今ここにいる。

 それだけで済む。

 ローデルという場所は、妙なところだと思った。

     ◇

 北側の確認から戻ったフィリーネは、ミレアへ正式に滞在延長を申し出た。

 場所は詰所だった。

 卓の上には、北側の簡易地図と、昨日から続く記録が積まれている。
 窓の外では、夕方の光が広場を淡く染め始めていた。

「記録保全局として、ローデルにしばらく留まります」
 フィリーネは言った。
「理由は、北側遺構の再調査、白靄残留の観測、昨日の異常処理の記録保全です」
「こちらとしては助かります」

 ミレアは素直に答えた。

「正直、人手も知識も足りていません。記録保全局の方が残ってくれるなら、心強いです」
「ありがとうございます。ただし、ローデルの運営権限に踏み込むつもりはありません」
「それも助かります」
「必要な調査は、必ず事前に共有します。北側へ入る場合も、単独行動はしません」
「ええ。そこは守ってください」

 ミレアの声は柔らかいが、はっきりしていた。

 フィリーネはわずかに頷く。

「それから、セレネさんについて」
「はい」
「無理に聞き出すつもりはありません」
「……そう言ってもらえると、ありがたいです」

 ミレアの目が少しだけ鋭くなる。

「彼女は強いです。でも、今の彼女は全部を抱えられる状態じゃないように見えます」
「同感です」
「フィリーネさんは、何か知っているんですか」

 直球だった。

 アシュレイなら言葉を選んだだろう。
 カイルならもっと雑に聞いたかもしれない。
 ミレアは、その中間で、必要なところだけをまっすぐ突いてくる。

 フィリーネは少し黙った。

「知っているかもしれない、と思っています」
「それは、彼女に関わることですか」
「ええ」
「危険なこと?」
「分かりません」
「彼女を傷つけること?」
「その可能性があります」

 ミレアは目を伏せた。

「なら、慎重にお願いします」
「もちろんです」
「セレネは、自分で平気だと言います。でも、平気じゃない時があります。昨日も、今日も」
「ええ」
「だから、急がないでください」

 フィリーネはミレアを見た。

 この人は、セレネを守ろうとしている。

 血縁でもない。
 長い付き合いでもない。
 それでも、もう守る対象として見ている。

 ローデルが、セレネにとってただの仮の拠点ではなくなりつつあることを、フィリーネはそこで理解した。

「約束します」
 フィリーネは静かに言った。
「急ぎません」

 ミレアは少しだけ安心したように息を吐いた。

「ありがとうございます」
「ただ」
「ただ?」
「いつか、彼女自身が知りたいと望んだ時には、話さなければならないことがあります」

 ミレアはその言葉を受け止め、ゆっくり頷いた。

「その時は、逃げないであげてください」
「はい」

 フィリーネの返事は、短かった。

 だが、揺らがなかった。

     ◇

 その夜、ローデルは久しぶりに静かな夜を迎えた。

 見張りは増やされている。
 北側の警戒も続いている。
 それでも、昨日のような張り詰めた空気はない。

 広場の火は小さく揺れ、人々は早めに休みに入った。
 修復作業で疲れた者たちの寝息が、建物の奥からかすかに聞こえる。

 セレネも横になっていた。

 眠れるかどうかは分からなかった。
 だが、身体は休息を求めている。肺の奥の痛みも、脚の重さも、昨日よりは薄れているが消えてはいない。

 目を閉じる。

 暗闇が広がる。

 夢は見なかった。

 ただ、眠りに落ちる少し前、耳の奥に声が残った。

 ――無理をするな。

 それは、今日聞いたフィリーネの声だったのか。
 それとも、もっと遠い日に聞いた声だったのか。

 セレネには分からなかった。

 分からないまま、胸の奥で何かが一度だけ痛んだ。

 懐かしい、とはまだ言えない。
 思い出した、でもない。

 けれど、何もないわけではない。

 その言葉だけが、暗闇の中で静かに残っている。

     ◇

 同じ頃、フィリーネは机に向かっていた。

 部屋には小さな灯りだけがある。
 外からは、ローデルの夜風が窓を揺らす音が聞こえていた。

 机の上には、今日の記録が並んでいる。

 北側遺構の残留観測。
 ローデル滞在延長の申請文。
 アシュレイの所感。
 セレネとの面会記録。

 そして、一枚の白紙。

 フィリーネは筆を取った。

 そこに、昨日と同じ名を書く。

 セレネ。

 細く、丁寧に。

 その横に、また別の名を書こうとして、止まった。

 筆先が紙に触れる寸前で止まる。

 まだ書けない。

 書けば、呼びたくなる。
 呼べば、確かめたくなる。
 確かめれば、きっと戻れなくなる。

 フィリーネは筆を置いた。

「急がないと、約束しましたから」

 小さな声だった。

 誰に言ったのかは、自分でも分からない。

 ミレアにか。
 セレネにか。
 それとも、遠い過去の誰かにか。

 フィリーネは白紙を閉じ、灯りを少し落とした。

 北の山は、今夜は沈黙している。
 白靄も見えない。
 異形の声もない。

 だが、すべてが終わったわけではない。

 遺構の奥には、まだ閉じたままの傷がある。
 セレネの中には、まだ届かない名がある。
 そしてフィリーネの手元には、まだ書かれないままの名がある。

     ◇

 夜が深くなる。

 ローデルは静かだった。
 北の山も、今は沈黙している。

 けれど、失われた名はまだ霧の向こうにあった。

 セレネは眠りの縁で、誰かの視線を感じた気がした。
 敵意ではない。
 呼び声でもない。
 ただ、ずっと昔からこちらを見ていたような、静かな気配。

 手を伸ばせば届きそうで、届かない。

 その向こうに何があるのか、まだ分からない。

 けれど、もう完全に背を向けることもできなかった。

 胸の奥が、もう一度だけかすかに痛む。

 そしてその痛みを抱えたまま、セレネはゆっくりと眠りへ落ちていった。

 名前には、まだ届かない。

 それでも、届くための道は、確かにローデルで開き始めていた。


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