第18話 残された答え

 白い核が、狭い空き地の中央で脈を打っていた。

 折れた骨を寄せ集めたような輪郭。
 その内側に、淡く光る白い芯がある。
 獣ではない。魔物とも少し違う。生き物の形を借り損ねた異常が、無理に外へ押し出されたような姿だった。

 周囲の異形は崩れている。

 胸の白い膨らみを潰された大きな異形も、すでに膝を折り、黒い身体を地面へ沈めていた。そこから漏れる靄は薄い。白い核へ向かって、逆流するように吸われている。

 セレネは短剣を構えたまま、呼吸を整えようとした。

 肺が浅い。
 喉の奥が焼ける。
 足は動く。だが、長くはもたない。

 今の身体がまだ無理に耐えている。

 それでも、核が露出した以上、ここで止めるしかなかった。

「セレネさん」

 アシュレイの声が後ろから届く。
 その声にも疲労が混じっていた。

「一度下がりますか」
「下がれば、また潜る」
「では、ここで」
「ここで折る」

 セレネは白い核を見据えた。

 核は小さく震えている。
 逃げ場を探しているのだろう。

 先ほどまで広く散っていた白靄は、排水溝と石垣の間に作った細い流路へ押し込まれている。完全ではない。すぐに崩れる。だが、今だけなら、核の逃げ道は限られている。

 この一瞬だけが、こちらの選んだ戦場だった。

「アシュレイ」
「はい」
「光を絞るな。核の輪郭だけ見えればいい」
「攻撃支援は」
「いらない」
「ですが」
「足元だけでいい。私が踏む場所を崩すな」
「……承知しました」

 アシュレイは余計なことを言わなかった。

 その判断はありがたい。
 今、説明に使う息はない。

 白い核が脈を打つ。

 一度。
 二度。

 三度目で、周囲の靄が膨らんだ。

 来る。

 セレネは地面を蹴った。

 真正面からではない。
 核は正面を見ていない。そもそも目がない。
 だが、流れの向きはある。

 白靄が集まり、逃げようとする方向。
 核が自分を保つために、無意識に選ぶ道。

 そこを外す。

 セレネは斜め右へ入り、短剣を振り抜いた。

 刃は核には届かない。
 届かせるつもりもない。

 短剣の切っ先で、核の外側にまとわりついていた白い流れを引っかける。細い糸を絡め取るように、ほんのわずかにずらす。

 核の脈動が乱れた。

 その瞬間、足元の土が沈みかける。
 アシュレイの杖が鳴り、地面が固まった。

 セレネは沈まず、二歩目へ移る。

 身体が重い。
 視界が白い。
 だが、見えている。

 核の中心から、遺構の奥へ戻ろうとする接続が一本。
 ローデル側へ逃げようとする細い流れが二本。
 足元の排水溝へ逃がした薄い流れが一本。

 全部を断つ必要はない。

 一番太いものを折れば、残りは自壊する。

「左です!」

 アシュレイの声。

 小型の異形の残骸が、再び動いた。完全に崩れたと思われた黒い身体が、核の脈動に引かれて起き上がろうとしている。

 セレネはそちらを見なかった。

「止めろ」
「はい!」

 短い返事。
 術の光が走り、残骸の脚が地面に縫い止められる。

 それで十分だった。

 セレネは三歩目で核の懐へ入る。

 白靄が顔へぶつかった。
 布越しでも、肺がひどく痛む。

 息を吸うな。

 思考だけが、冷たく冴えていく。

 短剣を逆手に持ち替える。
 刃に力を込めるのではない。
 刃を目印にする。

 流れを見ろ。
 密度を見るな。
 逃げる向きを見ろ。
 繋がっている先を見ろ。

 知らないはずの言葉が、頭の奥で鳴る。

 誰の声かは分からない。
 自分の声だった気もする。

 白い核が膨らんだ。

 破裂する。

 セレネはその直前、短剣の切っ先を核の下へ滑り込ませた。

 切るのではない。
 支えを外す。

 核をこの場へ留めていた流れの結び目を、下から弾く。

 音はなかった。

 だが、白い核の脈が一拍だけ止まる。

 その一拍に、セレネはすべてを合わせた。

「――折れろ」

 短剣を引いた。

 次の瞬間、白い核が内側へ潰れた。

 爆ぜるのではなく、縮む。
 外へ散ろうとしていた靄が、逆に中心へ吸い込まれた。
 白い光が一瞬だけ強くなり、すぐに薄れる。

 異形の残骸が崩れ落ちた。

 石垣にまとわりついていた白靄が、糸を切られたように地面へ落ちる。排水溝へ流れていた細い線も消え、北柵へ向かっていた薄い靄も途切れた。

 空気が、急に軽くなる。

 完全に清浄ではない。
 白靄の臭いも、喉の焼ける感覚も残っている。
 それでも、奥から押してきていた圧は消えていた。

 セレネは一歩下がった。

 膝が沈む。

「セレネさん!」

 アシュレイが駆け寄る。
 セレネは片手を上げて制した。

「倒れていない」
「そういう問題ではありません」
「終わったか」
「……少なくとも、今の噴出は止まりました」

 アシュレイは周囲を確認しながら答えた。

 セレネは浅く息を吐く。
 吸うと痛い。
 だが、呼吸はできる。

 視界の明滅も、少しずつ引いていく。

 遠く、北柵の向こうから声が上がった。

「靄が消えた!」
「異形、崩れてる!」
「北側、押し返したぞ!」

 歓声に近い声だった。

 だが、セレネはすぐには反応しなかった。

 終わったのは、今ここに押し出されたものだけだ。
 遺構そのものが完全に沈黙したわけではない。
 奥にはまだ何かが残っている。

 ただし、ローデルへ向いた流れは折った。

 今はそれでいい。

     ◇

 ミレアは、北柵の内側で白靄が薄れていくのを見ていた。

 最初は信じられなかった。

 柵前に溜まり始めていた白が、少しずつ薄くなり、地面へ落ちるように消えていく。異形たちの身体も、糸を切られた操り人形のように崩れた。

 押し返した。

 いや、ただ押し返したのではない。
 流れを変え、集め、潰した。

 ミレアはそれを全部見ていたはずなのに、うまく言葉にできなかった。

「負傷者確認! 吸い込んだ者は水場へ! 布を外すのはまだ待って!」

 それでも指示は出る。

 考えるのは後でいい。
 今は拠点を戻すのが先だ。

 カイルが柵のそばで荒く息をしていた。槍を握った手が震えている。怪我はないように見えるが、顔色は悪い。

「カイル」
「大丈夫」
「聞く前に答えない」
「じゃあ、まあまあ大丈夫」
「それも信用しづらいわね」

 ミレアは彼の肩を軽く叩いた。

「よく持ち場を守ったわ」
「……セレネが、前に出るなって言ってたから」
「あなたがそれを守れるようになったのは、十分すごいことよ」
「褒められてる気がしない」
「褒めてる」

 カイルは北の外を見た。

 白靄の向こうから、セレネとアシュレイの姿が戻ってくる。
 セレネは歩いている。
 ただし、いつものように軽くはない。

「ミレアさん」
「分かってる。水と布を持ってきて。薬担当も」

 セレネが柵をくぐる頃には、ミレアはすでに待っていた。

「怪我は」
「ない」
「呼吸は」
「浅い」
「正直でよろしい」

 ミレアは布を受け取り、セレネへ渡す。

「座って」
「まだ確認が」
「座って」
「……分かった」

 セレネは珍しく素直に従った。

 それだけで、ミレアは状況の重さを察した。
 この少女は、無理をしている。

 本人が平気そうに見せるのが上手いだけだ。

 アシュレイも柵をくぐってきた。彼の外套には白い粉がつき、顔には疲労が濃く出ている。

「報告は後でいいわ」
 ミレアが言う。
「いえ、最低限だけ先に」
「後でいい」
「……分かりました」

 アシュレイまで素直に引いた。

 北側の危険はひとまず止まった。
 けれど、この場にいる誰もが分かっている。

 今のは、ただの魔物討伐ではなかった。

     ◇

 フィリーネがローデルへ到着したのは、その少し後だった。

 夕暮れが濃くなり始め、山の影が拠点の南側へ長く伸びている。馬車は予定より早く、しかし無理を重ねた様子でローデルの外門に止まった。

 出迎えに出たのは、ミレアだった。

 彼女の服にはまだ白い粉が残っている。顔には疲労もあった。
 だが、背筋はまっすぐ伸びていた。

「ローデル仮拠点責任者、ミレアです」
「北方旧戦域記録保全局、フィリーネ・エルディアです。到着早々で申し訳ありません。状況を」
「異変は、ひとまず止まりました」
「ひとまず」

 フィリーネはその言葉を繰り返した。

 周囲には、事後対応の慌ただしさが残っている。
 水を運ぶ者。
 負傷者を確認する者。
 北柵を見回る者。
 そして、北側から戻ってきたらしい白い粉の痕跡。

 戦闘直後だ。

 しかも、通常の防衛戦とは違う。

 フィリーネは一目でそう判断した。

「負傷者は」
「軽症が数名。白靄を少し吸った者もいますが、重篤な者は今のところいません」
「拠点被害は」
「北柵の一部損傷。ですが、内部への大規模流入は防げました」
「……防げたのですね」

 フィリーネの声に、わずかな重みが混じった。

 彼女はローデルの北側へ視線を向ける。
 そこには、まだ薄く白い残滓が残っていた。

「現場を見られますか」
 ミレアが訊いた。
「お願いします」

 その返答は即座だった。

     ◇

 アシュレイが案内役についた。

 彼は疲れているように見えたが、フィリーネを見るとすぐに姿勢を正した。

「フィリーネ様」
「無事で何よりです、アシュレイ。報告は後で構いません。まず現場を」
「はい」

 二人は北柵を抜け、監視道側へ向かう。
 ミレアも少し距離を置いて同行した。

 フィリーネは歩きながら周囲を見た。

 白靄の残留。
 火桶の位置。
 半開きにされた柵の左端。
 意図的にずらされた防衛線。
 石垣側へ誘導された異形の痕跡。
 排水溝の蓋が外された跡。

 一つずつが、普通ではない。

 通常の防衛なら、柵を閉じる。
 敵を倒す。
 侵入を防ぐ。
 火と矢で押し返す。

 だが、ここでは違う。

 敵を倒しきらず、流れをずらしている。
 靄を防ぐのではなく、逃がしている。
 そして、逃がした先で集めている。

 フィリーネの足が、狭い空き地の前で止まった。

 そこには、白靄が濃く残っていた。
 だが散っていない。
 不自然なほど、細い線の跡がある。

 排水溝へ向かう流れ。
 石垣で折られた流れ。
 そして中央で潰された核の跡。

 フィリーネは膝を折り、地面に触れた。

 白い粉が指先につく。
 細かい。
 だが、ただの残留物ではない。

「ここで、流れを細らせたのですか」
 フィリーネが言った。

 アシュレイは一瞬、言葉を詰まらせた。

「はい」
「誰の判断です」
「……セレネさんです」
「彼女が」
「はい」

 フィリーネは目を伏せた。

 報告書で読んだ時より、現場はずっと雄弁だった。

 塞いでいない。
 力で押し潰してもいない。
 逃げ道を作り、細らせ、折っている。

 この手順は、現代の地方防衛で自然に出てくるものではない。
 少なくとも、偶然ではない。

「アシュレイ」
「はい」
「あなたは、これをどう見ましたか」
「私には……すべてを理解できたとは言えません」

 アシュレイは正直に答えた。

「ですが、あの方は敵を見ていたのではありません。戦場の形を見ていました」
「戦場の形」
「はい。靄、地形、火、光、人員、異形の動き。そのすべてを使って、ローデルに届く前に異常を処理しました」

 フィリーネは黙って聞いていた。

 アシュレイは続ける。

「現代の標準的な防衛術ではありません。封域異常対応の手順とも違います。ですが、結果は出ています。……私には、あの判断が今の時代のものには見えませんでした」

 今の時代のものではない。

 その言葉は、フィリーネの胸の奥に静かに沈んだ。

 彼女は地面の白い線を見つめる。

 遠い昔、記録の中で似た手順を見たことがある。
 戦域が崩れた時、封じる前に逃がす。
 圧を殺す前に流れを作る。
 細らせ、折り、接続を断つ。

 それは、古い戦場の技術だった。

 そして、彼女の記憶の中には、その手順を当然のように扱った者がいる。

 フィリーネはゆっくり立ち上がった。

「彼女は今どこに」
「拠点内で休んでいます。白靄を多少吸っていますが、意識ははっきりしています」
「そうですか」

 その声は穏やかだった。

 穏やかすぎるほどに。

 ミレアは、フィリーネの横顔を見ていた。
 その人が何を考えているのか、完全には読めない。
 ただ、現場を見たことで何かを確かめたのだと分かった。

 フィリーネは北の遺構側へ目を向ける。

 夕暮れの奥に、白い残滓がまだ薄く漂っている。
 その向こうから、夜が降りてきていた。

「……こんな手順を、誰が」

 小さな呟きだった。

 だが、アシュレイには聞こえた。
 ミレアにも、かすかに届いた。

 フィリーネはそれ以上何も言わず、ローデルの方へ視線を戻した。

 その先に、北柵の内側で座る銀髪の少女の姿があった。

 遠目だった。
 顔までははっきり見えない。
 ただ、月のない夕暮れの中で、銀白の髪だけが淡く浮かんでいる。

 フィリーネは、足を止めた。

 呼吸が一拍だけ遅れる。

 少女は、こちらに気づいていない。
 ミレアに何かを言われ、水を受け取っている。
 小柄で、細く、白靄の疲労をまといながらも、背筋だけは妙に崩れていない。

 知らない少女のはずだった。

 そう処理するには、あまりにも多くのものが重なりすぎている。

 フィリーネは静かに目を伏せた。

 まだ、呼ぶには早い。

 名前を。
 あの名を。

 口にしてしまえば、戻れなくなる。

「フィリーネ様?」

 アシュレイの声で、彼女は顔を上げた。

「何でもありません」
「面会は」
「今日は、急ぎません」

 アシュレイが少し意外そうな顔をする。

 フィリーネは北柵の内側へ歩き出した。

「まず、負傷者と拠点の確認を優先します。彼女には休ませてください」
「承知しました」

 歩きながら、フィリーネはもう一度だけ銀髪の少女を見た。

 偶然ではない。
 そう思い始めている自分がいる。

 けれど、まだ断定しない。
 断定してはならない。

 目の前に残された答えは、あまりにも静かで、あまりにも鋭かった。

 ローデルの夜が近づいている。

 北の異変は止まった。
 しかし、別の何かが今、確かに動き出していた。


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