第17話 戦場を組み替える

 白靄の中で、異形が動いた。

 胸の中心だけが白く膨らんだ、細長い四肢の影。
 それは獣のように低く構えながら、しかし獣とは違う不自然な滑らかさで斜面を下ってくる。

 脚が地面を蹴るたび、胸の白い膨らみから靄が漏れた。
 薄く、広く、地面を這うように。

 セレネはそれを見ながら、ローデルへ続く道へ身を引いた。

 逃げているのではない。
 誘っている。

 ただし、一歩間違えれば本当に逃げるしかなくなる。

「アシュレイ、右の溝を切らすな」
「右ですか」
「靄が左へ寄りすぎると、柵の正面へ戻る。右へ薄く逃がせ」
「承知しました」

 アシュレイが杖を振る。
 短い詠唱とともに、地面の土がわずかに盛り上がり、白靄の流れを受ける小さな堰のような形を作った。

 それだけで靄の向きが変わる。

 ほんの少し。
 だが、その少しが命を分ける。

 セレネは異形の進路を見た。
 今のままなら、斜面をまっすぐ下って北柵へ向かう。
 そこで倒せば、胸の白い膨らみが破れて靄が散る。
 ローデルの柵前でそれをやるのはまずい。

 ならば、倒す場所をずらす。

 ローデルの北西。
 監視小屋跡と柵の間に、古い石畳が半分だけ残った狭い空き地がある。
 片側は崩れた石垣。もう片側は浅い排水溝。
 人が多く入るには狭いが、流れを絞るには使える。

 そこへ引く。

「来ます!」

 アシュレイの声と同時に、異形が跳んだ。

 白い胸が膨らみ、背中から靄を吐く。
 その動きは速い。巨獣ほどの圧はないが、こちらの身体を引き裂くには十分すぎる。

 セレネは正面から受けなかった。

 半歩だけ横へずれ、異形の前脚が地面へ落ちる瞬間を狙う。短剣の刃を振るうのではなく、添えるように入れた。関節の内側を浅く切り、力の流れを外す。

 異形の身体が傾いた。

 殺さない。
 止めすぎない。
 進路だけを変える。

 倒れかけた異形の横腹を蹴り、セレネは身体を反転させた。
 その蹴りも、強くは入れない。吹き飛ばすのではなく、向きをずらすだけでいい。

 異形は低く鳴いた。

 音というより、割れた笛を無理に吹いたような響きだった。

 白靄が散る。
 セレネは布越しに息を止め、すぐに距離を取る。

 肺が浅く痛んだ。

 無理な踏み込みはしていない。
 それでも、今の身体はまだ重い。
 昔なら思考の後に身体が遅れることなどなかった。
 だが今は違う。

 判断は先に行く。
 身体は、少し遅れてついてくる。

 それでも、足を止めるほどではない。

「セレネさん、右から二体!」

 アシュレイの警告。

 監視道の脇から、別の異形が二体現れていた。
 小型だ。胸の白い膨らみも小さい。だが、数が増えれば流れが乱れる。

「止めるな。寄せろ」
「どこへ」
「火のある方へ向けるな。石垣側へ押せ」
「了解しました」

 アシュレイが杖を構え、地面に細い光を走らせる。
 小型の一体が足を取られ、体勢を崩した。もう一体はその横を抜けようとする。

 セレネは低く踏み込み、短剣の柄でその顎を打ち上げた。
 刃ではない。
 切れば白靄が漏れる。
 打つだけでいい。

 異形の頭がのけぞり、進路が石垣側へ逸れる。

「倒さないの、本当にやりづらいですね……!」
「慣れろ」
「無茶を言います」
「死ぬよりはいい」

 アシュレイは返事をしなかった。
 代わりに、もう一度土を動かす。

 白靄が少しずつ、狭い空き地へ集まり始めた。

     ◇

 ローデル北柵の内側では、カイルが必死に槍を握っていた。

 前に出るな。

 セレネにそう言われたわけではない。
 けれど、前に出るなという意味のことは、何度も言われている。

 今の自分の役割は、柵を守ること。
 勝手に外へ出ないこと。
 セレネたちが作ろうとしている流れを、邪魔しないこと。

 分かっている。

 分かっているのに、北の外で白靄が揺れるたび、足が勝手に動きそうになる。

「カイル、右!」
「分かってる!」

 柵の隙間へ近づいた小型の異形を、カイルは槍で突き返した。
 殺しきらない。
 セレネがそう言っていた。

 胸を突くな。
 脚を払え。
 体勢を崩せ。
 左へ押すな。
 石垣側へ寄せろ。

 言葉は簡単だ。
 やるのは難しい。

 普通なら、敵は倒せばいい。
 倒せば安全になる。
 そう思っていた。

 だが今、目の前では違うことが起きている。

 異形を倒しきった場所ほど、白靄が濃くなる。
 逆に、足を止めて流した場所では、靄が薄く伸びる。

 分かりたくないのに、分かってしまう。

 セレネは敵を見ていない。
 敵だけを見ていない。

 靄の流れ、地形、柵の隙間、人の位置、火の熱、風の向き。
 全部をまとめて、何か別の形に変えようとしている。

「何なんだよ、ほんとに……」

 カイルは呟き、槍を握り直した。

 怖い。
 でも、今は引けない。

 セレネが外で戦っている。
 アシュレイもいる。
 ミレアは全体を見ている。

 なら、自分は自分の場所を守る。

「左端、押し返すな! 流すんだ!」
 カイルは隣の見張りへ叫んだ。
「倒すなって言われただろ! 足だけ狙え!」

 自分で言っていて、少し変な気分だった。

 まるでセレネの言葉を、そのまま借りているみたいだった。

     ◇

 ミレアは広場と北柵を行き来しながら、状況を見ていた。

 正直に言えば、理解しきれていない。

 白靄を逃がす。
 流れを選ぶ。
 入口をずらす。

 言葉としては聞いた。
 理屈も、ある程度は分かる。

 だが、実際に異形が迫っている中で柵を半開きにし、倒せる敵を倒しきらずに誘導するなど、普通の拠点防衛ではない。

 無謀に見える。
 狂気にも近い。

 なのに、状況は悪化していない。

 むしろ、北柵の正面に溜まりかけていた白靄が、少しずつ左へ、さらに外側へずれている。
 柵の内側へ入り込む量は、最初に予想したより少ない。

 セレネの指示が効いている。

「ミレアさん、南側への退避、第一組完了!」
「第二組も続けて。焦らせないで、走らせない」
「はい!」

 別の見張りが駆け寄る。

「北西側、火桶が一つ倒れそうです!」
「水をかけないで、位置をずらして。火を消すと流れが戻るかもしれない」
「分かりました!」

 自分で言っていて、ミレアは内心で苦笑した。

 火を消すと流れが戻るかもしれない。

 いつから自分は、そんな判断をするようになったのだろう。

 けれど今は、それが必要だった。

 セレネの見ているものを、完全には理解できない。
 それでも、彼女の判断に合わせて拠点を動かすことはできる。

 それが今の自分の役目だ。

 ミレアは北の外を見る。

 白靄の向こう、銀の髪が一瞬だけ見えた。
 小柄な身体が、異形の爪を紙一重でかわし、短剣で進路をずらしている。

 強い。

 そう思った。

 ただしそれは、単純な腕力や術の強さではない。

 戦いそのものを、別の高さから見ている。

「……あなた、本当に何者なのよ」

 その声は、誰にも届かなかった。

     ◇

 狭い空き地へ、白靄が集まり始めた。

 セレネは息を浅くしながら、視線だけで流れを追う。

 北の遺構から押し出された靄。
 監視道を伝う細い流れ。
 異形の胸から漏れる濃い靄。
 柵前で乱れかけた流れ。
 そして、こちらが開けた排水溝へ逃げる薄い流れ。

 まだ太い。
 まだ散る。

 だが、形はできつつある。

「アシュレイ、灯りを右へ」
「魔導灯ですか」
「そうだ。火桶では強すぎる。白靄の端だけを引け」
「光に反応する保証は」
「反応する。さっき星明かりにも揺れた」

 アシュレイは一瞬だけ驚いたような顔をした。

「見ていたんですか」
「見えていた」
「……了解しました」

 彼は携帯用の魔導灯を取り出し、光量を絞って右手側の石垣近くへ置いた。
 淡い青白い光が、白靄の端を照らす。

 靄が揺れた。

 光に向かったわけではない。
 光で流れの輪郭が浮き、薄い部分と濃い部分が見えやすくなったのだ。

 セレネには、それで十分だった。

「そこを撃つな!」
 セレネは柵側へ叫ぶ。
「光の右側は空けろ! 左から押せ!」

 カイルの声が返ってくる。

「聞こえた! 右側空けろ! 左から押す!」

 指示が伝わる。
 少し遅れて、柵内側の動きが変わる。

 異形の数体が、狭い空き地へ寄せられていく。
 胸の白い膨らみが、同じ場所に集まる。
 白靄の濃度が上がる。

 危険だ。

 だが、散った危険より、集めた危険のほうが殺せる。

「……セレネさん」
 アシュレイの声が硬くなる。
「あれを本当に、ここで処理するのですか」
「まだ処理しない」
「まだ?」
「核が出ていない」
「核……」

 アシュレイは白靄の中心を見た。

 そこには、先ほどの大きな異形がいた。
 胸の白い膨らみは、他の個体より明らかに大きい。脈を打つたびに靄が漏れ、周囲の小型がそれに引かれるように動いている。

 だが、セレネの目には別のものが見えていた。

 あれは核ではない。
 核の近くにある、蓋のようなものだ。

 壊せば一瞬で散る。
 だが、流れを細らせた状態で壊せば、奥の接続が露出する。

 そこを断つ。

 そのために、もう少し集める必要がある。

 セレネは短剣を握り直した。

 手が少し汗ばんでいる。
 呼吸が浅い。
 白靄を完全には避けられていない。

 今の身体がまだ無理に耐えている。

 それでも、判断は鈍っていない。

「アシュレイ」
「はい」
「次にあれが胸を膨らませたら、足元を固めろ」
「動きを止める?」
「止めすぎるな。半歩だけ遅らせろ」
「半歩」
「止めれば破れる。遅らせるだけでいい」
「……難題ですね」
「できるか」
「やります」

 その返事は、さっきより少しだけ早かった。

 アシュレイも変わっている。
 ただ記録するだけではなく、この異常な戦場の中で、自分の役割を掴み始めている。

 大きな異形が胸を膨らませた。

「今だ」

 アシュレイの杖が地面を叩く。
 異形の足元に薄い光が走り、湿った土が一瞬だけ硬く締まった。

 止めるほどではない。
 だが、踏み込みが半歩遅れる。

 その半歩に、セレネは入った。

 正面ではなく、斜め下から。
 短剣の刃を胸へ向けず、肩の付け根へ滑り込ませる。
 そこを浅く切り、力の向きを変える。

 異形の胸が、ローデル側ではなく、空き地の奥へ向いた。

「押せ!」

 カイルの声。
 柵側の槍が一斉に伸び、小型の異形たちが狭い空き地へ押し込まれる。

 白靄が渦を巻いた。

 地面を這っていたものが、初めて上へ立ち上がる。

 視界が白く染まりかける。
 喉が焼ける。
 肺が縮む。

 セレネは布の上から息を止め、後ろへ跳んだ。

 着地の瞬間、膝がわずかに沈む。

 重い。

 今の身体が、思ったよりずっと重い。
 だが、倒れるわけにはいかない。

 白靄の中心で、大きな異形の胸が裂け始めていた。

 まだだ。

 今壊れると散る。
 もう一つ、逃げ道がいる。

「排水溝を開けろ!」
 セレネが叫ぶ。
「右奥だ! 石を外せ!」

 アシュレイが即座に動く。
 杖の先で石を浮かせ、半ば埋もれた溝の蓋をずらした。

 白靄がそこへ吸われるように流れる。

 細い。
 だが、一本の線になった。

 セレネはその線を見た。

 これで折れる。

     ◇

 アシュレイは、自分の手が震えていることに気づいていた。

 恐怖だけではない。
 疲労でもない。

 目の前で起きていることを、頭が処理しきれていない。

 セレネの指示は、現代の標準防衛術ではない。
 封域異常への一般対処とも違う。
 魔物討伐の手順とも違う。

 敵を倒すな。
 流れを見ろ。
 火を寄せろ。
 光を右へ置け。
 半歩だけ遅らせろ。
 排水溝を開けろ。

 ひとつひとつの指示は、時に奇妙で、時に危うい。
 だが結果として、白靄はローデルから逸れ、狭い空き地へ集まり、今や一本の線へ細りつつある。

 これは、知識だけではない。

 経験だ。

 戦場の中で、何度も似たようなものを見て、失敗し、殺し、救い、また判断してきた者の動きだ。

 アシュレイは、白靄の向こうに立つ銀髪の少女を見た。

 小柄な身体。
 細い腕。
 年若い横顔。
 布越しの浅い呼吸。

 どこから見ても、彼女は少女だった。

 だが今、その少女は敵を相手にしていない。

 戦場の形そのものを相手にしている。

「……今の時代のものではない」

 呟きは、靄に紛れて消えた。

 だが、アシュレイの中では消えなかった。

     ◇

 白靄の線が細くなった瞬間、セレネは動いた。

 狙うのは異形ではない。
 胸の白い膨らみでもない。

 その奥。

 白靄が流れ込む先に、一瞬だけ露出した接続点。

 見えたのは、ほんのわずかな光だった。
 糸のように細い、白い脈。
 遺構の奥と異形たちをつないでいるもの。

 セレネは短剣を逆手に持ち替える。

 刃では切れない。
 物質ではない。
 だから、刃に沿わせるように意識を通す。

 昔なら、もっと確実な術式を使えたはずだ。
 今は無理だ。
 身体も、術の扱いも、まだ完全ではない。

 だから応急でいい。

 細った流れを、折る。

 セレネは地面を蹴った。

 視界が明滅する。
 肺が痛む。
 足が重い。

 それでも、届く。

 短剣の切っ先が、白い脈に触れた。

 音はなかった。

 ただ、空気が一瞬だけ止まった。

 次の瞬間、白靄が内側へ引き戻されるように収縮した。

 大きな異形が、声にならない音を上げる。
 胸の膨らみが潰れ、周囲の小型が一斉に崩れ落ちた。

 だが、完全には終わっていない。

 奥に、まだ何かがある。

 白靄の中心で、これまで隠れていたものが姿を現し始める。

 丸いものではない。
 獣でもない。
 石でもない。

 折れた骨のような白い輪郭。
 中心に、淡く脈打つ核。

 それが、遺構の口から押し出された異常の本体だった。

 アシュレイが息を呑む。

「……あれが」

「ああ」

 セレネは短剣を構え直した。

 呼吸は浅い。
 身体は重い。
 それでも、口元だけは静かだった。

「ようやく出た」

 白い核が、夜の前触れの中で脈を打つ。

 ローデルの北に作られた狭い戦場。
 そこに、倒すべきものがようやく露出した。

 セレネは一歩、前へ出た。

 次で、折る。


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