第16話 遺構の口
北の空が、白く明滅した。
一度目は、見間違いで済ませられるほど淡かった。
二度目は、誰もが顔を上げるほどはっきりしていた。
三度目には、ローデルの広場から声が消えた。
山の奥で、何かが脈を打っている。
セレネは北柵の前で、光の走った稜線を見つめていた。白靄そのものはまだ見えない。だが、空気の奥にある圧は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
押されている。
閉じ込められていたものが、出口を探している。
そして今、その出口の一つがローデルへ向いている。
「北柵、完全に閉じないで!」
ミレアの声が広場に響く。
その判断は早かった。
つい先ほどまでなら、異常が来ると分かった時点で柵を閉じるのが自然だったはずだ。けれどミレアは、セレネの言葉を飲み込んだ。
閉じるな。
ただ受け止めるのではなく、流れを選ぶ。
それがどれほど危うい判断か、分かっていないわけではないだろう。それでも彼女は、決断した。
「南側の退避路は開けたまま! 荷は捨ててもいい、人を優先して! 北側見張りは単独で外へ出ない! 配置だけ守って!」
人々が動き出す。
慌ただしい。
だが、まだ崩れてはいない。
カイルは北柵内側の槍置き場へ走り、他の若い見張りたちに何かを叫んでいた。自分が前へ出たい衝動を押し殺しているのが、遠目にも分かる。
セレネはその姿を横目で見て、少しだけ頷いた。
守る場所を間違えていない。
「セレネさん」
アシュレイが隣に立った。杖を手にしている。記録板は持っていない。今は観察より対応を優先したのだろう。
「状況は」
「圧が上がっている」
「白靄の噴出ですか」
「まだ噴いてはいない。だが、もうすぐ破れる」
そう言った直後、北の山肌が低く震えた。
音というより、腹の底に触れる振動だった。
広場の木箱が小さく鳴り、柵に吊るされた金具がかすかに揺れる。
誰かが息を呑んだ。
次の瞬間、北西の斜面で白いものが噴き上がった。
靄だった。
昨日までの薄い揺らぎではない。
地面の割れ目から息を吐くように、白い靄が細く立ち上り、山道の上を這うように広がっていく。
風は南へ吹いている。
だが靄は、風とは別の意思を持つように、斜面に沿って低く流れた。
「来た……!」
カイルの声が聞こえた。
北柵の向こうで、白靄の中から黒い影がいくつか揺らぐ。
最初は獣かと思えた。
だが違う。
四足でありながら、関節の位置が合わない。頭部は細く、胸郭だけが不自然に膨らみ、背から白い煙のようなものを漏らしている。巨獣ほど大きくはない。だが、一体ではない。
二体。
三体。
さらに奥に、まだ影がある。
「異形、複数!」
見張り台から声が飛ぶ。
ミレアがすぐに指示を出す。
「矢はまだ撃たない! 柵に寄るまで待って! 北側、間隔を詰めすぎないで!」
セレネは白靄と異形の流れを見ていた。
異形そのものは、そこまで強くない。
少なくとも、巨獣と比べれば圧は弱い。数で押してくる分、厄介ではあるが、柵内で受ければ処理できない相手ではないだろう。
問題は、そこではない。
「敵を見すぎるな」
セレネは低く言った。
「靄を見ろ」
アシュレイが視線を北へ向ける。
「……異形が、靄の濃い場所に沿って動いている」
「そうだ」
「靄が道を作っている?」
「逆だ。道に靄が乗っている」
セレネは北西の斜面から監視道へ続く線を目で追った。
靄はただ広がっていない。
いくつかの低い場所を選び、石標の残った古い道筋を伝い、ローデルへ下りてきている。
それは偶然ではない。
古い流路。
遺構から伸びる、目に見えない傷。
そこへ白靄が乗っている。
「入口は、あそこではない」
セレネは呟いた。
アシュレイがこちらを見る。
「今噴いている場所ではない、ということですか」
「あれは裂け目だ。奥から押されたものが、弱い場所を破って出ているだけだ」
「では、原因はさらに奥」
「遺構側だ」
北の空がまた白く光った。
今度は光のあとに、低い軋みが続いた。
石と石がこすれ合うような音。眠っていた扉が、内側から押されているような音。
セレネは目を細める。
遺構の口が開きかけている。
◇
最初の異形が柵の前へ近づいた。
「撃て!」
ミレアの号令で矢が放たれる。
数本が異形の胴に突き刺さった。黒い体がよろめき、白靄を吐き散らしながら倒れる。だが、崩れた身体の中から薄い白が地面へ染み出し、後続の異形がその上を越えてくる。
倒しても、流れは止まらない。
カイルが柵の内側から槍を突き出し、隙間に近づいた一体を押し返す。隣の見張りが横から槍を合わせ、異形の脚を払った。
悪くない動きだった。
だが、白靄は少しずつ柵の足元へ近づいている。
「水桶を前に出して! 布を濡らして口元に当てて!」
ミレアが叫ぶ。
薬担当の女が、子どもや年寄りを南側へ誘導している。
ローデル全体が、ぎりぎりの秩序を保ちながら動いていた。
セレネは北柵の開けられた一角を見る。
まだ使える。
完全に閉じなかったおかげで、靄は柵の前で滞留せず、薄く流れ込む道を探している。だが、このままではローデルの内側へ入る。
選ばなければならない。
「ミレア!」
セレネは声を上げた。
「北柵の左端を開けろ。半分でいい」
「左端!?」
「そこへ火を寄せる。靄をそちらへ流す」
ミレアは一瞬だけ息を止めた。
柵を開ける。
異形が来ている最中に。
普通ならありえない判断だ。
「……左端、半開放! 火桶を二つ寄せて!」
「ミレアさん!?」
「やって!」
反論を飲み込ませる声だった。
見張りたちが慌てて動く。北柵左端の固定を外し、人一人分より少し広い隙間を作る。火桶が運ばれ、熱と煙がそこへ集まる。
白靄の端が、わずかに揺れた。
風ではない。
熱に反応したわけでもない。
流れが、薄い逃げ道を見つけたのだ。
「矢を撃つな」
セレネが言う。
「今倒すな。寄せろ」
「倒すなって……!」
カイルが叫ぶ。
「倒したら靄が散る。足を止めるだけでいい」
カイルは歯を食いしばった。
だが、すぐに槍の角度を変えた。
異形の胴を貫くのではなく、肩を押し、脚を払う。倒しきらず、左端へずらす。隣の見張りもそれに合わせる。
動きはぎこちない。
それでも、流れが少し変わった。
アシュレイが息を呑む。
「異形を誘導している……」
「敵を減らすな」
セレネは言った。
「入口をずらす」
その言葉を聞いたアシュレイの表情が変わった。
理解したのではない。
理解しきれないものを、目の前で見ている顔だった。
セレネは北を見続ける。
まだ足りない。
柵前で流れを変えるだけでは、ローデルの被害を少し減らす程度にしかならない。奥で開きかけている口を見つけ、そこから伸びる流路をこちらの都合で曲げなければならない。
そのためには、遺構外縁へ近づく必要がある。
今なら、白靄の流れが見える。
今なら、どこが本当の口か掴める。
遅れれば、ローデル側で破れる。
「アシュレイ」
「はい」
「北へ出る」
「……今ですか」
「今だ」
アシュレイは一度だけ北柵を見た。
異形はまだ続いている。
だが、柵内側の防衛はかろうじて保っている。
「目的は」
「遺構の口を見る」
「流路の確認ですね」
「そうだ」
「同行します」
即答だった。
セレネは少しだけ意外に思ったが、止めなかった。
「限界を越える前に戻る」
「それはこちらの台詞です」
「なら、互いに守れ」
アシュレイは小さく頷いた。
◇
北柵の左端から外へ出ると、空気の重さが変わった。
ローデルの内側ではまだ人の声と火の熱があった。
一歩外へ出た瞬間、それらが背後へ落ちる。
白靄は地面に近いところを流れている。
深く吸い込まなければ、すぐに倒れるほどではない。だが、喉の奥が焼けるように乾き、肺の内側を薄く撫でられる感覚がある。
セレネは布で口元を覆った。
アシュレイも同じように布を当てる。
「濃度はまだ低い」
彼は息を抑えながら言った。
「ですが、長くは危険です」
「分かっている」
白靄の流れに沿って、二人は監視道へ進む。
異形の何体かがこちらへ反応した。
セレネは短剣を抜く。
大きく踏み込まない。
今の身体で無理に加速すれば、すぐに重さが来る。
だから最小限でずらす。正面から受けず、流れに逆らわず、首ではなく脚を切る。
一体目の前脚を裂き、倒れ込む身体を横へ蹴る。
二体目はアシュレイの術で足元を固められ、動きが鈍ったところを短剣で関節を断つ。
殺しきらない。
白靄を散らさず、流れの外へ外す。
「本当に、倒しきらないのですね」
「今はな」
「理由は理解しました。ですが実行するのは難しい」
「慣れだ」
「慣れるほど経験したくはありません」
その返答に、セレネはわずかに息を吐いた。
笑ったわけではない。
だが、少しだけ緊張が抜けた。
監視小屋跡へ近づくにつれ、白靄は濃くなる。
地面の石が湿ったように白く、折れた木材には粉が厚く付着していた。
そして、その奥。
遺構外縁へ続く斜面の下に、白い筋が見えた。
靄ではない。
空気の中に浮かぶ細い線のようなもの。
月も出ていない夕暮れの中で、淡く光りながら揺れている。
セレネは足を止めた。
「見つけた」
アシュレイが隣に並ぶ。
「何を」
「口だ」
斜面の奥で、古い石組みが露出していた。
巨獣の出現で崩れたのか、あるいはもともと傷んでいたのか。岩と土に半分埋もれた遺構の一部が、白靄に濡れている。そこから靄が噴き出しているのではない。
むしろ、吸っている。
奥から押されてきたものが、そこを通って外へ出る前に、周囲の流れを引き寄せている。
古い流路の合流点。
閉じ損なった戦域の傷口。
セレネの脳裏に、知らないはずの光景が一瞬だけよぎった。
白い霧。
崩れた防壁。
叫ぶ兵。
そして、黒い手袋をした自分の手が、地図の上で流路を切っている。
記憶か。
ただの反射か。
考える時間はない。
「アシュレイ」
「はい」
「あれは塞ぐな」
「塞がない?」
「塞げば、ローデル側で破れる」
「では」
「逃がす。だが、今のまま逃がせば広がる。細らせる場所が要る」
セレネは周囲を見た。
右に崩れた石垣。
左に倒れた見張り杭。
奥へ続く浅い溝。
足元には古い排水路のような窪みが残っている。
使える。
完全ではない。
だが、形は作れる。
「この溝を開ける」
「排水路ですか」
「今は流路になる」
「ローデルから離れる方向ですね」
「そうだ。まず逃げ道を変える」
アシュレイは一瞬だけ躊躇した。
それから杖を構える。
「土を払います。石を動かすには時間がかかりますが」
「大きく動かす必要はない。詰まりを外せればいい」
二人は同時に動いた。
アシュレイが小さな術で土を削り、セレネが崩れた木材と石片をどける。白靄は足元を這い、布越しの呼吸をさらに浅くさせた。
肺が重い。
視界の端が少し白む。
だが、まだ動ける。
今の身体は、思ったより疲れやすい。
けれど壊れてはいない。
セレネは短剣の柄で詰まった石を叩き、溝の一部をこじ開けた。
その瞬間、白靄の流れが変わった。
わずかに。
本当にわずかに。
だが、確かにローデル側へ向いていた靄の一部が、横へ逸れた。
アシュレイが目を見開く。
「動いた……」
「まだだ」
セレネは息を整えながら言う。
「これは誘っただけだ。折るには足りない」
そのとき、遺構の奥で低い音がした。
先ほどより近い。
先ほどより深い。
白い筋が震える。
石組みの奥から、何かが押し出される気配がした。
アシュレイが杖を握り直す。
「来ます」
「ああ」
白靄の中に、大きな影が浮かんだ。
巨獣ほどではない。
だが、これまでの異形とは違う。
細長い四肢を持ち、胸の中心だけが白く膨らみ、そこから靄を吐いている。
核ではない。
核に近いものを運ぶ殻だ。
セレネはその影を見て、静かに判断した。
ここで倒せば、靄が散る。
通せば、ローデルへ向かう。
なら、流す場所を変えてから潰す。
まだ準備が足りない。
「下がるぞ」
セレネは言った。
「え?」
「今ここで殺すな。ローデル側へ戻る。あれを、選んだ場所へ引く」
「誘導するつもりですか」
「そうだ」
アシュレイの顔に、緊張と理解が同時に浮かんだ。
「危険です」
「知っている」
「失敗すれば、ローデルへ連れていくことになります」
「失敗しなければいい」
アシュレイは何か言いかけ、飲み込んだ。
「……分かりました」
セレネは白靄の奥にいる影を見た。
敵を倒すな。
入口をずらせ。
流れを逃がせ。
細らせろ。
最後に折れ。
昔、誰かがそう教えたのか。
それとも、自分が誰かにそう命じたのか。
思い出せない。
ただ、身体より先に判断だけが動いていた。
「まだ殺せる流れだ」
セレネは短剣を構え直し、ローデルへ続く道を一度だけ振り返った。
背後には守るべき拠点。
前には開きかけた遺構の口。
そして、その間に、こちらが選ぶべき戦場がある。
白靄の中で異形が動いた。
次の瞬間、セレネは地面を蹴った。