第13話 動き出す足音
フィリーネがローデル行きを決めた翌朝、管理棟の空気はいつもよりわずかに硬かった。
大きな命令が下されたわけではない。
緊急招集があったわけでもない。
ただ、普段は机と記録筒の間だけで完結するはずの案件に、彼女自身が出向くと決めた。それだけで、周囲の者たちは十分に意味を察した。
記録保全局において、フィリーネは軽く動く人間ではない。
机上で済むものは机上で済ませる。
照会で足りるなら照会で終える。
追加確認役を送れば済む案件に、わざわざ自分の足を使うことは少ない。
だからこそ、部下たちは何も問わず、必要な準備だけを進めていた。
「護衛は二名でよろしいのですか」
出立前、部下の一人が確認する。
フィリーネは外套の留め具を整えながら、静かに頷いた。
「多すぎれば、ローデルに余計な圧をかけます」
「ですが、北側の異変は拡大傾向にあります」
「だから急ぐのです。戦力を連れて威圧しに行くわけではありません」
その言い方に、部下は一度だけ口を閉ざした。
正論だった。
しかし、それだけではないことも分かっているのだろう。フィリーネ自身も、すべてを説明できるとは思っていない。
机の上には、ローデルから届いた報告書の写しが置かれていた。
未確認の銀髪少女。
災害級相当個体の単独討伐。
近年の地方術戦系統と一致しない戦闘様式。
古い戦域式を思わせる発想。
説明しづらい違和感。
それらは、どれも決定打ではない。
偶然で処理できる。
特殊な師に学んだ者だと考えることもできる。
辺境には時折、記録の外で育った強者が現れる。そういう例を、フィリーネは知らないわけではなかった。
それでも、切れない。
紙の上に残された違和感が、どうしても手元から離れなかった。
「フィリーネ様」
呼ばれて顔を上げる。
「馬車の準備が整いました」
「分かりました」
報告書の写しを閉じ、鞄へ収める。
必要な記録具、照会印、北側旧戦域の簡易地図。過剰な荷は持たない。現地で見るべきものは、紙ではなく痕跡だ。
部屋を出る前に、フィリーネは一度だけ窓の外を見た。
空は淡く晴れていた。
ローデルへ向かう山道は、ここからは見えない。
それでも、見えないはずの北の稜線が、妙に近く感じられた。
銀髪の少女。
その言葉を思い浮かべ、フィリーネは静かに息を吐く。
ただの偶然であればいい。
そうでなければ、きっと厄介なことになる。
そう思いながらも、足はもう止まらなかった。
◇
ローデルでは、朝からいつも通りの忙しさが続いていた。
柵の補強。
見張り台の交代。
北側道の確認。
残った白靄痕の記録。
南側へ送る報告の追記。
やるべきことは山ほどある。
だが、ここ数日のローデルには、忙しさとは別の落ち着かなさが混じっていた。
セレネは広場の端で、積み上げられた木箱の上に腰を下ろしていた。休んでいるように見えて、視線は北側の柵へ向いている。
身体の重さは、いくらか抜けた。
巨獣との戦いの後に残っていた鈍い疲労は、完全ではないにせよ薄れている。呼吸も戻っているし、脚も動く。だが、今の身体がどこまで無理に耐えられるのかは、まだ正確には掴めていない。
それが少しだけ面倒だった。
自分の判断と身体の限界が、まだ噛み合いきらない。
昔のつもりで動けば、今の身体が遅れてくる。
今の身体に合わせすぎれば、必要な場面で遅れる。
それでも、この数日で分かったことはある。
動けないわけではない。
戦えないわけでもない。
ただ、今の自分には今の戦い方が必要だ。
「また北を見てる」
声に振り向くと、カイルが槍を肩に担いだまま立っていた。
朝から見回りに出ていたらしく、靴には山道の土がついている。
「見ていたら悪いか」
「悪くはないけどさ。最近ずっとそんな顔してるから」
「どんな顔だ」
「なんか、嫌なものを先に見つけてる顔」
セレネは少し黙った。
思ったより、よく見ている。
「嫌なものとは限らない」
「じゃあ何だよ」
「面倒なものだ」
「それ、ほとんど同じじゃないか?」
否定しようとして、やめる。
たぶん似たようなものだ。
カイルは木箱の横へ立ち、同じように北側を見た。
「アシュレイさん、まだ詰所にいるぞ。昨日からずっと何か書いてる」
「仕事熱心だな」
「おまえのことも書いてるんじゃないか?」
「だろうな」
「嫌じゃないのか?」
「嫌だ」
「普通に嫌なんだな」
カイルが少し笑った。
セレネも否定はしなかった。
記録されること自体は必要だ。昨日も、一昨日も、その理屈は理解している。だが、自分の動きや判断が紙の上で形を持ち、外へ運ばれていくのは、やはり愉快ではない。
しかも今回は、ただの戦闘記録ではない。
北方旧戦域記録保全局。
古い記録を拾い続ける系統。
そして、そこから誰かが来るかもしれない。
その可能性は、もう無視できないところまで近づいていた。
「外から、また人が来ると思うか?」
カイルが訊いた。
「来るだろうな」
「やっぱり」
「アシュレイひとりで終わる案件なら、もう少し軽く済んでいる」
「そういうものか」
「そういうものだ」
カイルは唇を尖らせる。
「偉い人とか来たら面倒だな」
「それは同意する」
「おまえ、偉い人苦手そうだもんな」
「得意な人間がいるのか」
「ミレアさんは割と得意そう」
「ミレアは人間相手の戦い方を知っている」
「なんか言い方が物騒なんだよなあ」
そこへ、噂のミレアが帳面を抱えて通りかかった。
「物騒なのはどっち?」
「何でもないです」
カイルが即答する。
「早いわね」
「生きる知恵です」
「その知恵を仕事にも使いなさい」
ミレアは呆れたように息をつき、それからセレネを見た。
「セレネ、あとで少し時間をもらえる?」
「何の話だ」
「北側の追加報告。アシュレイが見直したいって」
「私の話か」
「あなたの話も、北の話も」
その二つが分けられなくなってきている。
セレネはそう思った。
「分かった」
「助かるわ。……それと」
ミレアは少し声を落とした。
「南側管理経由で、追加の連絡が来た。記録保全局の人間が、こちらへ向かっているらしい」
「早いな」
「ええ。予想より早い」
カイルが目を丸くする。
「それって、アシュレイさんの上司?」
「直接かどうかは知らないけど、少なくとも確認役より上の立場でしょうね」
「偉い人じゃん」
「たぶんね」
カイルの顔が分かりやすく曇る。
セレネは北側から南へ、ゆっくり視線を移した。
外の目が、近づいている。
そう感じる。
ただし、それだけではなかった。
南から近づくものとは別に、北からも何かが押してきている。
見えない。
形はまだない。
それでも、空気の奥に圧がある。
巨獣がいたときの感覚とは違う。
あれは、ひとつの塊だった。巨大で、乱暴で、こちらへ向かってくるもの。
今の北は違う。
もっと薄く、広く、逃げ場を探している。
まるで、閉じ込められていた水が、ひび割れを探して滲み出してくるような感覚だった。
「セレネ?」
ミレアの声で、思考が戻る。
「どうかした?」
「いや」
「いや、の顔じゃないわ」
「便利な言葉だな」
ミレアは眉を寄せる。
「北?」
「たぶんな」
「何か見えた?」
「見えたわけじゃない。だが、終わっていない」
それを聞いて、カイルの表情から軽さが消えた。
「また来るのか」
「分からない」
「分からないって言うときのほうが怖いんだけど」
「正直でいいだろう」
「よくない」
カイルはそう言ったが、槍を握る手に少し力を込めていた。
ふざけていても、前よりはずっと早く空気を読むようになっている。
ローデルも変わっている。
セレネだけではない。
◇
その日の午後、アシュレイは詰所の机に地図を広げていた。
ローデル北側。
監視道。
崩れた小屋跡。
遺構群外縁。
巨獣の出現位置。
白靄残滓の分布。
細い線と印が、地図の上にいくつも書き足されている。
「昨日より増えてるな」
セレネが言うと、アシュレイは頷いた。
「見張りからの報告を足しました。夜間、北西の斜面で一度だけ白い揺らぎが見えたそうです」
「揺らぎ」
「靄と断定できるほど濃くはない。ただ、風の流れと逆向きに動いたと」
ミレアが腕を組む。
「見間違いの可能性は?」
「あります」
アシュレイは即答した。
「ですが、ここ数日の状況を踏まえると無視はできません」
地図の上、彼の指が北側の一点を示す。
「監視小屋跡から遺構外縁にかけて、残留の濃い場所が線状に並んでいます。偶然の散布ではなく、何らかの流れがあると考えたほうが自然です」
「流れ……」
ミレアが呟く。
セレネは黙って地図を見ていた。
線状に並ぶ白靄の痕。
風向きに逆らう揺らぎ。
巨獣の発生位置。
監視小屋跡の残滓。
やはり、ただ漏れているのではない。
押されている。
どこか奥で圧が生まれ、それが古い流路を伝って外へ逃げている。巨獣はその結果として現れた一つにすぎない。大きな塊が潰れたことで、圧の逃げ方が変わった可能性もある。
「どう見ますか」
アシュレイが訊いた。
その言い方は、確認役としての問いだった。
けれど同時に、セレネ個人の見立てを知りたがっている響きもあった。
「巨獣の残り香ではない」
セレネは地図から目を離さずに言う。
「あれは奥から押し出されている。今見えているのは、たぶん先端だ」
「先端」
「本体ではないという意味だ」
「……つまり、より奥に原因があると」
「そう考えるほうが自然だ」
アシュレイは筆記具を取り、短く記録する。
ミレアは渋い顔をした。
「それ、かなり悪い話よね」
「良い話ではない」
「もう少し慰めを含めて言えない?」
「含めても事実は変わらない」
「でしょうね」
ミレアは大きく息を吐いた。
「北側道の警戒を増やす。夜間は二人体制。見張り台から白い揺らぎが見えた場合、単独確認は禁止。これでいい?」
「妥当です」
アシュレイが答える。
「セレネは?」
「ひとまずは」
「ひとまず、ね」
ミレアはその言葉を嫌そうに繰り返した。
セレネとしても、今すぐ踏み込むべきだとは思っていない。
材料が足りない。
身体も万全ではない。
現代の術や道具の基準も、まだ完全には把握していない。
だが、様子を見るだけで済む段階でもなくなりつつある。
地図の上の線は、そう告げていた。
◇
夕方、ローデルに冷たい風が吹いた。
それは山では珍しくない風だった。
広場の火が揺れ、干していた布が音を立て、見張り台の旗が一度だけ大きくなびく。
だが、次の瞬間。
「北側、白い!」
見張り台から声が飛んだ。
広場の動きが止まる。
セレネは反射的に立ち上がり、北側へ目を向けた。柵の向こう、山道のさらに奥。木々の隙間で、確かに何かが白く揺れている。
靄だ。
ただし濃くはない。
白い布を水の中で揺らしたように、一瞬だけ形を持ち、すぐに薄れる。
カイルが槍を掴んで駆け寄ってきた。
「見たか!?」
「見た」
「今の、前と同じか?」
「違う」
セレネは短く答えた。
巨獣のときの靄は、もっと濃かった。あれは対象から発生し、周囲を汚すものだった。
今のは違う。
どこかから押し出され、外へ出た瞬間に薄まっている。
つまり、奥にはまだ圧がある。
ミレアが広場へ出てきて、即座に指示を飛ばした。
「北側見張り、単独で出ない! 南柵は半閉鎖、避難路だけ確保! カイル、勝手に走らない!」
「走ってない!」
「走りそうな顔してる!」
「それはそう!」
言い返しながらも、カイルは足を止めている。
成長している、と言っていいのかもしれない。
アシュレイも詰所から出てきた。
その手には、すでに記録板がある。
「今の位置は?」
「北西斜面、監視小屋跡のさらに奥」
見張りが答える。
「持続時間は」
「三呼吸くらいです。すぐ消えました」
アシュレイは記録し、それからセレネを見る。
「どうしますか」
「今は行かない」
セレネは答えた。
「夜に追っても、向こうに選ばれるだけだ」
「向こうに?」
「地形と視界の話だ」
半分だけ嘘だ。
本当は、靄の流れに誘われて踏み込むのが危険だと感じている。
あれは見つけてほしいもののようにも、見つけた者を引きずり込みたいもののようにも見えた。
今のローデルで無理に追えば、守るものが増えるだけだ。
ミレアがセレネの横顔を見て、静かに言った。
「明日、確認する?」
「明るくなってからだ」
「分かった。準備しておく」
その返答は早かった。
セレネは少しだけ意外に思い、ミレアを見る。
彼女は不安そうではあったが、もう疑ってはいなかった。
それは信頼なのか、諦めなのか。
おそらく両方だろう。
夜が降り始める。
北の白い揺らぎはもう見えない。
だが一度見えたものは、なかったことにはならない。
セレネは柵の向こうを見つめながら、胸の奥に残る感覚を確かめた。
北から、何かが押してきている。
南から、誰かが近づいている。
まだ出会っていない二つの足音が、同じ場所へ向かっている。
ローデルの夜は、いつも通り静かに見えた。
けれどその静けさの下で、次の出来事はもう動き始めていた。