第14話 北の空気
翌朝、ローデルの北側はいつもより静かだった。
見張りの数は増えている。柵の前には予備の矢束が置かれ、退避路には荷車が一台控え、広場ではミレアが朝から人の配置を確認していた。人の動きはむしろ多い。
それなのに、空気だけが静かだった。
山が音を吸っているような静けさだ。
セレネは北柵の前で、短く息を吐いた。白い息にはならない。冷えてはいるが、そこまで寒い朝ではない。けれど喉の奥に、薄い乾きが残る。
昨日見えた白い揺らぎは、一度きりだった。
夜の間に再発はしていない。見張りからも追加の報告はない。普通なら、見間違いだったと片づけることもできる程度の出来事だ。
だが、あれは見間違いではなかった。
少なくともセレネには、そう思えなかった。
「準備できたぞ」
カイルが槍を持ってやって来る。今日は昨日よりも少しだけ表情が硬い。無理に明るく振る舞おうとしていない分、むしろ落ち着いて見えた。
その後ろから、アシュレイも記録板と小ぶりな杖を携えて歩いてくる。外套は前よりしっかり留められていた。北側の風を警戒しているのだろう。
「三人で行くのね」
ミレアが確認するように言った。
「奥までは入らない」
セレネが答える。
「昨日揺らぎが見えた位置の手前まで確認する」
「手前まで、ね」
「必要なら引く」
「あなたの“必要なら”は信用しづらいのよ」
「善処する」
「それも信用しづらい」
ミレアは眉を寄せたが、今回はそれ以上止めなかった。
止めても無駄だと思ったのか。
あるいは、行かなければならない段階だと理解したのか。
たぶん、両方だ。
「カイル」
「分かってる。勝手に前に出ない。単独行動しない。セレネとアシュレイさんの指示を聞く」
「分かってるなら、ちゃんとやりなさい」
「やるって」
「軽い」
「軽くないって」
いつものやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩む。
だが、その緩みは長く続かなかった。
北柵が開く。
三人は監視道へ踏み出した。
◇
北の監視道は、昨日までよりさらに色が薄く見えた。
木々の葉は落ちきっていない。山肌にも草は残っている。だが、朝の光を浴びても、どこか灰をかぶったように沈んでいる。湿り気がないのに、乾ききっているわけでもない。生きているものが、呼吸だけを少し弱められたような印象だった。
「……鳥、少ないな」
カイルが低く言う。
セレネも同じことを感じていた。昨日まで完全にいなかったわけではない。少なくとも森の奥で小さな鳴き声は聞こえていた。だが今日は、それすら遠い。
アシュレイが歩きながら記録する。
「生物反応の低下。残留異常の影響か、単なる忌避行動かは不明」
「忌避行動?」
カイルが訊く。
「危険を感じて離れている、という意味です」
「ああ、逃げてるってことか」
「簡単に言えば」
カイルは少しだけ顔をしかめた。
「動物が逃げる場所に人間が入るの、普通に嫌なんだけど」
「正しい感覚だ」
セレネが言う。
「正しいなら帰らないか?」
「確認は必要だ」
「だよなあ」
ぼやきながらも、カイルは足を止めなかった。
監視道を進むにつれ、地面に残る白い粉の量が増えていく。以前は岩陰や草の根元に細く付着している程度だったが、今は道標の欠けた面にも、見張り杭の根元にも、薄く積もっている。
アシュレイはその一つを採取し、小瓶へ収めた。
「粒子が昨日より細かい」
「広がったのか?」
カイルが訊く。
「広がった、だけならまだ分かりやすい」
アシュレイは白い粉を光に透かす。
「これは……拡散というより、吹き出したものが薄く沈着したように見えます」
「吹き出した?」
「短時間の噴出があった可能性です」
セレネはその言葉に、少しだけ目を細めた。
現代の言い方としては妥当だ。
短時間の噴出。
残留異常の沈着。
封域流動の不安定化。
どれも間違ってはいない。
けれど、それだけでは足りない。
「噴き出したというより、押し出されたんだろう」
セレネが言うと、アシュレイがこちらを見た。
「違いがありますか」
「ある。噴き出したなら、口を塞げば済む。押し出されているなら、塞ぐだけでは別の場所が裂ける」
「……圧力が残る、という意味ですか」
「近い」
アシュレイは少しだけ沈黙し、それから記録板に書き足した。
カイルは二人を見比べる。
「つまり、どういうことだ?」
「北の奥に、まだ原因があるということです」
アシュレイが答える。
「それが外へ出ようとしている」
セレネが続ける。
「で、入口だけ塞いでも別のところから出るかもしれない」
「そういうことだ」
「最悪じゃん」
「良い話ではないな」
カイルは小さく舌打ちした。
その反応は正しい。
理解は雑だが、危機感は正確だった。
◇
監視小屋跡へ近づくと、空気はさらに変わった。
風があるのに、流れていない。
木々の枝は揺れている。草の先も震えている。だが、肌に触れる風の向きと、白い粉の溜まり方が噛み合わない。山道の上を流れる空気とは別に、地面に近いところで何かが緩く這っている。
セレネは足を止めた。
「ここから先は慎重に行く」
「見えるのか?」
カイルが訊く。
「見えるというより、合わない」
「何が」
「風と、残り方が」
カイルは分かったような分からないような顔をした。
アシュレイはすぐにしゃがみ込み、白い粉の溜まり方を確認する。
「確かに、風下と一致していません」
「だろう」
「ですが、地形による乱流の可能性もあります」
「あるな」
「否定しないんですね」
「否定する理由がない」
アシュレイは一度だけセレネを見た。
たぶん、彼にとってセレネは扱いづらい対象なのだろう。断定しすぎず、しかし見立ては早い。理由を問えば返ってくるが、全部は言わない。記録する側からすれば、これほど面倒な相手もない。
「セレネさんは、これを何だと見ていますか」
「流路だ」
「流路」
「白い靄そのものの道ではない。もっと奥にある圧が、通りやすい場所を選んでいる」
「自然発生ではなく、経路があると」
「そう見える」
アシュレイは記録板に筆を走らせた。
「現代の分類で言えば、封域流動の偏向……いや、残留魔力の誘導経路に近いか」
「名前は任せる」
「そこを任せられるのも困りますね」
「私には今の呼び方が分からない」
「……なるほど」
アシュレイは妙に納得した顔をした。
余計なことを言ったかもしれない。
セレネは少しだけそう思ったが、もう遅い。
「今の呼び方、ですか」
「言葉の癖だ」
「そうですか」
そう答えたものの、アシュレイの目は明らかに何かを拾っていた。
カイルが怪訝そうに首を傾げる。
「今の、何か変だったか?」
「変ではありません」
アシュレイが答える。
「ただ、少し気になっただけです」
「またそれか。アシュレイさん、ずっと気になってるな」
「仕事ですので」
「便利な言葉だな、それ」
その言い方に、セレネは少しだけ口元を緩めそうになった。
だが、すぐに表情を戻す。
監視小屋跡の奥。
崩れた壁材の向こうで、白いものが一瞬だけ揺れた。
「下がれ」
セレネの声に、カイルは今度こそ即座に反応した。槍を構え、半歩引く。アシュレイも記録板を外套の内側へしまい、杖に手を添えた。
白い揺らぎは、すぐに消えた。
昨日と同じだ。
だが、昨日より近い。
「今のも……」
「ああ」
セレネは頷く。
「奥から来ている」
その瞬間、木々の向こうから低い音がした。
獣の声ではない。
風でもない。
古い石の腹の中で、何かが軋んだような音。
カイルの顔が強張る。
「何だ、今の」
「遺構側です」
アシュレイが地図を確認する。
「監視小屋跡のさらに北。外縁部に近い」
「行くのか?」
カイルがセレネを見る。
セレネはすぐには答えなかった。
今行けば、何かは見える。
だが、こちらが見る前に、向こうにもこちらを見られる。
地形、視界、人数、時間。どれも有利ではない。
それに、今の音は始まりではない。
兆しだ。
まだ奥にあるものが、外へ出る前に鳴らした軋み。
「今日はここまでだ」
「えっ、戻るのか?」
「戻る」
「でも、今の音――」
「だから戻る」
セレネは短く言った。
「今踏み込むには、材料が足りない」
カイルは何か言いたげだったが、口を閉じた。
アシュレイも反対しなかった。
「妥当です」
「意外だな」
「現時点での深入りは危険です。異常の方向性は確認できました。持ち帰る情報としては十分でしょう」
「ずいぶん冷静だな」
「冷静でなければ、記録は残せません」
その言葉は、彼らしかった。
◇
帰路につく途中、カイルはあまり喋らなかった。
普段なら、気まずい沈黙を嫌って何かしら言う。山道の悪口でも、アシュレイの記録癖への軽口でも、ミレアに怒られる予想でも、何でもいい。だが今日は、槍を握ったまま前を見ている。
セレネはその横顔をちらりと見た。
「怖いか」
「怖いよ」
カイルは即答した。
「普通に怖い。何か分からないものが奥にいるのも嫌だし、分からないのに分かってそうな顔してるおまえも怖い」
「私か」
「そうだよ」
思わぬ方向から来た言葉に、セレネは少しだけ黙る。
「おまえ、北を見てるとき、何か……違う顔になる」
「違う?」
「うまく言えないけど、ローデルにいるときの顔じゃない。俺たちと話してるときの顔でもない」
カイルは言葉を探すように眉を寄せた。
「もう戦ってるみたいな顔だ」
セレネは足を止めなかった。
だが、その言葉は胸のどこかに残った。
もう戦っている。
そう見えたのなら、たぶん間違ってはいない。
戦いは、刃がぶつかってから始まるものではない。
地形を見る。
風を見る。
相手の流れを見る。
退路と進路を数える。
どこで受け、どこで折り、どこで殺すかを決める。
その時点で、もう戦場の中にいる。
「嫌なら戻ってもいい」
セレネが言うと、カイルはむっとした顔をした。
「そういう意味じゃない」
「そうか」
「怖いけど、逃げたいわけじゃない。……たぶん」
「たぶんか」
「まだそこまで格好つけられないんだよ」
正直な返答だった。
セレネは少しだけ息を吐く。
「それでいい」
「いいのか?」
「怖いと思えるなら、無駄に死なない」
「おまえ、励まし方が独特だよな」
「励ましたつもりはない」
「だろうな」
カイルは小さく笑った。
それで、ほんの少しだけ空気が戻る。
アシュレイは二人の後ろを黙って歩いていたが、すべて聞こえているだろう。
そして、たぶんまた記録する。
そう思うと、少しだけ面倒だった。
◇
ローデルへ戻ると、ミレアは広場ではなく北柵のすぐ内側で待っていた。
三人の姿を見るなり、まず全員の顔と手足を確認する。
負傷がないと分かってから、ようやく息を吐いた。
「戻りが早い」
「奥で音がした」
セレネが答える。
「だから戻った」
「……それは、褒めていい判断?」
「好きにしろ」
「じゃあ褒めておくわ。よく戻った」
その言い方が妙に真面目だったので、セレネは少しだけ反応に困った。
詰所へ移動し、アシュレイが確認結果を報告する。
白い粉の増加。
風向きと合わない沈着。
北西斜面の揺らぎ。
遺構側からの軋みのような音。
そして、セレネの見立て。
奥から押し出されている。
流路がある。
塞ぐだけでは危険。
ミレアは最後まで黙って聞いていた。
「つまり、北側を封鎖すれば解決、とはいかないのね」
「解決にはならないだろうな」
セレネが答える。
「時間稼ぎにはなるかもしれないが」
「時間稼ぎでも欲しいわよ」
「それはそうだ」
ミレアは帳面を閉じた。
「なら、今夜から北側の警戒をさらに増やす。非戦闘員の荷もまとめておく。南側退避路は開けたまま。アシュレイ、外への追加報告は?」
「すぐに書きます」
「お願い。カイル」
「何?」
「今日は北側見張りには入らない。休みなさい」
「何でだよ」
「顔が疲れてる」
「疲れてない」
「疲れてる」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとじゃない」
カイルは不満そうだったが、強くは言い返さなかった。
たしかに疲れている。
恐怖を認めたあとの疲れだ。
それは悪い疲れではないが、軽く扱っていいものでもない。
ミレアは最後にセレネを見た。
「あなたも休んで」
「私は――」
「休んで」
「……分かった」
先に言葉を潰された。
セレネが折れると、ミレアはわずかに満足そうな顔をした。
◇
その夜、セレネは眠れなかった。
横になってはいた。
目も閉じていた。
だが、意識の底でずっと北側の空気を追っている。
白い揺らぎ。
風と合わない残滓。
奥から押し出される圧。
古い石の軋む音。
それらが頭の中で線を結ぶ。
単なる魔物の発生ではない。
ただの汚染でもない。
あれは、古い構造を通って外へ出てきている。ならば奥には、まだ閉じたままの流れがある。
問題は、どこで破れるかだ。
ローデル側で破れれば、守るものが多すぎる。
監視道で破れれば、対応はまだできる。
遺構側で破れるなら、こちらから形を選べる可能性がある。
そこまで考えて、セレネは目を開けた。
暗い天井が見える。
今の身体で、どこまでできるか。
その計算も必要だった。
昔のようには動けない。
だが、昔のように考えることはできる。
なら、力で押すのではなく、形を変えればいい。
塞ぐのではなく、逃がす。
逃がして細らせる。
細らせた先で、折る。
それができるかどうかは、明日以降の確認次第だ。
そのとき、北側の方角で、かすかな音がした気がした。
実際に聞こえたのか、記憶が勝手に鳴らしたのかは分からない。
だが、セレネはゆっくりと身を起こした。
窓の外は暗い。
ローデルは静かだった。
火も、人の声も、夜の中に沈んでいる。
それでも、北の奥だけが眠っていない。
セレネはその方角を見つめ、静かに呟いた。
「……次は、来る」
その言葉は、誰にも聞かれずに夜へ落ちた。
だが、確信だけは残った。
北の異変は、もう兆しでは終わらない。
次に動くとき、それはローデルへ届く形を持って現れる。