第11話 古い技の匂い
北の監視道は、思っていた以上に荒れていた。
もともと常用されていない道だという話は聞いていたが、実際に踏み入れると、その意味がよく分かる。踏み固められていたはずの地面はところどころ崩れ、山肌に沿う細道には落ち葉と小枝が厚く積もっていた。古い見張り杭は半ば土へ沈み、道標代わりの石標も片側が欠けている。
「ほんとに使ってなかったんだな」
前方の藪を鉈で払いつつ、カイルがぼやく。
「言っただろ」
セレネが短く返す。
「言ってたけどさ。ここまでだとは思わなかったんだよ」
その少し後ろを、アシュレイが一定の歩幅でついてくる。手には小型の記録板と細い筆記具。歩きながら、道の崩れ方や残留異常の痕を簡潔に書き留めていた。
それだけ見れば文官寄りだ。
だが、ぬかるみを避ける足の置き方や、背後の木立へ視線をやる間の取り方には、ちゃんと現場の経験がある。
使えない相手ではない。
ただし、前に立たせる種類でもない。
セレネは先頭に近い位置で、道の先を見ていた。
白い靄はもう見えない。あの巨獣を倒したことで、大きな核はひとつ潰れたのだろう。だが空気の癖はまだ戻っていない。山の冷たさに混じって、何か乾いたざらつきのようなものが残っている。
異変は終わっていない。
「止まってくれ」
不意に、アシュレイが声をかけた。
セレネとカイルが足を止める。
アシュレイは道の脇へしゃがみ込み、地面の上に細く残った白い粉のようなものを指先で示した。
「ここ、見えますか」
「靄の残りか?」
セレネが答える。
「似ています」
アシュレイは頷いた。
「ただ、昨日の巨獣の残滓より粒が細かい。しかも風下だけじゃなく、岩陰にも残ってる」
カイルが眉を寄せる。
「それって、何が違うんだ?」
「巨獣が通った跡というより、もっと長くその場に滞留していた可能性があるってことだ」
セレネが言う。
「……ああ、そういうことか」
アシュレイが静かにこちらを見る。
「判断が早いですね」
「分かりやすい形だっただけだ」
「それにしては、迷いがない」
褒めてもいないし、探ってもいない。
ただ、見えたものを口にしているだけの声だった。
セレネは答えずに立ち上がり、道の先へ視線を戻す。こういう手合いは、余計に返すとむしろ拾う。なら、必要以上に餌はやらないほうがいい。
道はその先で二つに分かれていた。片方は崖沿いへ細く続き、もう片方は遺構群の外縁へ向かってゆるく下っている。
セレネは一拍だけ周囲を見てから、崖沿いのほうへ顎を向けた。
「先に上を取る」
「え?」
カイルが振り返る。
「遺構の方じゃなくて?」
「下へ行く前に見張れる位置が欲しい」
言ってから、セレネは一瞬だけ沈黙した。
今の判断は自然だった。
だが、自然すぎるとも言える。
前線で地形を見るときの癖が、そのまま出た。
案の定、アシュレイが僅かに目を細める。
「理由を聞いても?」
「下へ降りてから何かに出られるより、先に視界を確保したほうがましだ」
「合理的ですね」
「そうか?」
アシュレイは少しだけ考えたあと、首を横に振った。
「合理的です。ただ、今の地方監視隊の発想というよりは、もう少し古い戦域式の見方に近い」
「……そんなものまで分かるのか」
「分かるほど詳しくはありません。ですが、最近の現場はまず安全経路の確認から入ります。今のは、敵がいた場合の視界優先に見えました」
カイルがそのやり取りを聞きながら、ぽかんとした顔になる。
「同じようなこと言ってないか?」
「似てるようで違うんだ」
アシュレイが淡々と答える。
「どこを起点に考えるかの差です」
セレネは小さく息を吐いた。
やはり、この男は見ている。
ただし、そこから誰かの名へ飛ぶほどではない。
なら、まだ問題はない。
「崖沿いからでいい」
アシュレイが言う。
「そのほうが確認範囲も広い」
カイルは少し不満そうだったが、反論はしなかった。
三人は崖沿いの細道へ入る。足場は悪いが、そのぶん視界は開けている。北の山並みと、その下に沈む遺構外縁の一部が見下ろせた。
そこで、セレネはまた立ち止まった。
「どうした?」
カイルが訊く。
セレネは答えず、前方の斜面を見ていた。風で揺れる草の中に、ひと筋だけ逆らう動きがある。目では見えにくい。だが、山肌の流れ方からして不自然だった。
「下がれ」
「え?」
返事を待たず、セレネは地面の石を拾って投げた。
次の瞬間、斜面の下から何かが跳ね上がる。
白い筋を帯びた中型の獣だった。狼に似ているが、肩の骨格が盛り上がり、四肢がやたらと長い。巨獣ほどではないにせよ、明らかに自然の形から外れている。
「うわっ!」
カイルが槍を構える。
だが獣が狙ったのは彼ではなく、少し後ろのアシュレイだった。記録板を持つ手を見たのか、それとも単に一番隙が大きく見えたのか。どちらでも結果は同じだ。
セレネは最短で間へ入った。
正面から受けない。獣の飛び込みを半歩だけ外し、前脚が地を踏む瞬間へ踵を差し込む。重心が流れる。そこへ掌底を首の横へ叩き込み、さらに体勢を崩したところへ足払いを入れる。
転ばせる。
それだけでいい。
「カイル!」
「分かってる!」
今度のカイルは早かった。倒れた獣の肩口へ槍を突き込み、深くまでは届かなくとも動きを止める。そこへセレネが石片を拾い、白い筋の集中する喉元へ打ち下ろした。
獣が短く痙攣し、動かなくなる。
静けさが戻った。
アシュレイはすぐには何も言わなかった。
ただ、記録板を持つ手を少し下ろしたまま、倒れた獣とセレネを順に見ている。
「……今のは、よく見えなかった」
やがてそう言った。
「悪いな」
セレネが答える。
「謝る必要はありません。ただ――」
言いかけて、アシュレイは少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「崩し方が、あまりにも迷いがない」
「褒めてるのか?」
「観察結果です」
カイルが槍を引き抜きながら口を挟む。
「強いってことだろ?」
「それもあります」
アシュレイは頷いた。
「ですが、強いだけなら今の時代にもいくらでもいます。今のは……そうですね、もっと古い形に見えました」
「古い?」
「武器を主体に組み立てていない。術を見せようともしていない。位置取りと崩しだけで先に勝ち筋を作っている。最近の地方戦術や制式訓練より、もっと前の完成形に近い印象です」
その言葉は、思ったより鋭かった。
セレネは表情を崩さないようにしながら、倒れた獣へ近づいた。喉元の白い筋は、巨獣のものと同じ系統に見える。やはり流れは切れていない。
「それで、何が言いたい」
地面に膝をつきながら問うと、アシュレイは首を横に振った。
「何かを断定したいわけではありません。ただ、報告の中に書くべき所感が増えた、というだけです」
「面倒だな」
「否定はしません」
カイルがそのやり取りを聞いて、露骨に眉をひそめる。
「報告って、そんな細かいことまで書くのか?」
「書きます」
「何で?」
「私が現地確認役だからです」
「うわ、真面目……」
「褒め言葉として受け取っておきます」
感情の薄い顔で言うせいで、本気なのか冗談なのか分かりづらい。
だが、その分だけ余計な色がないとも言える。アシュレイはたぶん、この場で見たもの以上の結論を無理には持ち込まない。そこは信用してよさそうだった。
三人はさらに北へ進む。
崖沿いの先には、古い監視小屋の残骸があった。半ば崩れ、屋根は落ち、壁材だけが傾いている。その周辺の地面には、白い靄の痕と、獣のものとも人のものともつかない細かな足跡が複雑に重なっていた。
「……ここ、溜まり場みたいになってるな」
カイルが低く言う。
「ええ」
アシュレイが膝をつく。
「しかも、出入りが一方向じゃない」
セレネは壊れた小屋の奥を見た。
遺構側から来る流れと、北の尾根から下りてくる流れ。二つがここで交わっている。その交点で異変が濃くなるなら、やはり核は一つではないか、あるいはもっと奥に本体がある。
「昨日の巨獣だけで終わりじゃない」
セレネが言う。
「そのようですね」
アシュレイも静かに頷く。
「ローデルの件は前兆ではなく、露出した一部だった可能性が高い」
その言い回しは、少しだけ冷えた現実感を持っていた。
カイルが唇を噛む。
「じゃあ、また来るってことか」
「来る」
セレネが答える。
「ただし同じ形とは限らない」
「それ、余計嫌なんだけど」
「私もそう思う」
その返しに、カイルは少しだけ目を丸くしたあと、苦笑した。
監視小屋跡での確認を終えたころには、日はすでに傾き始めていた。これ以上奥へ入るのは得策ではない。三人はローデルへ戻ることにする。
帰り道、アシュレイは前より少しだけ無口だった。
だが沈黙が重いわけではない。見たものを頭の中で並べ替えている種類の静けさだ。
やがて、ローデルの柵が見える頃になって、彼は不意に言った。
「一つだけ、聞いても?」
「内容による」
セレネが答える。
「あなたは、今の一般的な戦い方をどこで学びましたか」
「学んでいない」
「では、古い戦い方を?」
「それも答える義理はないな」
アシュレイはすぐに頷いた。
「たしかに」
そこで終わる。
食い下がらない。
その代わり、何かは確実に残した目をしていた。
ローデルへ戻ると、ミレアが広場で待っていた。三人の顔を見るなり、まず負傷の有無を確認し、それから北の様子を順に聞き始める。
「巨獣級はもういない。ただ、終わってもいない」
セレネが言う。
「監視小屋跡に流れが集まってた」
カイルが続ける。
「残滓と交差点の記録を取っています」
アシュレイが簡潔に締める。
ミレアは深く息を吐いた。
「良い知らせと悪い知らせが半分ずつね」
「悪いほうが少し多い」
セレネが言うと、彼女は顔をしかめた。
「そういうところよ」
「事実だ」
「事実でも腹立つの」
広場に、いつもの温度が少しだけ戻る。
そのやり取りを横で聞いていたアシュレイが、ほんのわずかだけ視線を和らげたのを、セレネは見逃さなかった。
この男は、きっと報告を書く。
そこには巨獣のことだけでなく、北の監視道で見たことも入るだろう。
古い。
今風ではない。
妙に洗練されている。
少女の見た目と噛み合わない戦い方。
それでいい。
それ以上に届かれるのは困るが、そこまでなら問題はない。
むしろ、外へ伝わる情報としてはちょうどよいのかもしれない。
「難しい顔してるな」
カイルに言われ、セレネはわずかに肩をすくめた。
「考えごとだ」
「またか」
「まただ」
「ほんと、起きてからずっと考えてるよな」
「そういう時期なんだろう」
自分でも、そう思う。
世界が変わり、身体が変わり、名前が変わった。
その上で、過去へ繋がる線まで少しずつ近づいてくる。
考えないで済むほうがおかしい。
夕暮れの光が、ローデルの柵を淡く染めていた。
北で見た白い残滓はまだ頭のどこかに残っている。
それと同時に、アシュレイの視線と言葉もまた、静かに残っていた。
今の一般的な戦い方とは違う。
古いのに、古臭くはない。
洗練されすぎている。
それはたぶん、間違っていない。
そして、その“違い”を本当に意味のある形で拾える人間がいるのだとしたら――
そこまで考えて、セレネはまた思考を切る。
まだ早い。
今はローデルと北の異変。
その先は、もう少し近づいてからでいい。
広場を渡る夕風が、銀白の髪を揺らした。
その静かな揺れの向こうで、書かれるべき報告は、少しずつ形を持ち始めていた。