第10話 外から来る目
ローデルに外からの客が着いたのは、報告を出してから二日後の昼前だった。
空は薄曇りで、山肌を渡る風は乾いている。朝から見張り台の者が何度か南側の道を確認していたのは知っていたが、実際に人影が見えたとき、広場の空気は目に見えて変わった。
「来たぞー!」
真っ先に声を上げたのは、南柵の近くにいた若い見張りだった。
セレネは広場の端で木箱を運ぶ手を止め、そちらを見る。山道を上がってくる人影は二つ。先導の案内役と、その後ろを歩く外套姿の人物。荷は少なく、足取りは無駄がない。
ただの補給便ではない。
「思ったより早かったわね」
帳面を抱えたミレアが、横で小さく呟いた。
「誰が来る予定だった?」
「南から確認役が一人。記録系統寄りの人間だって話」
「戦闘要員ではない?」
「主ではないでしょうね。でも、まるで戦えませんって歩き方でもない」
その見立てはたぶん正しい。
セレネの目にも、山道を上がってくるその人物は“文官寄りだが、現場を知らない人間ではない”ように見えた。歩幅が一定で、視線の動きが少ない。周囲を見ていないようでいて、必要なものだけ拾っている目だ。
やがて二人は広場へ入ってきた。
案内役らしい男はすぐに頭を下げ、後ろの人物をミレアのほうへ促す。
「ローデル拠点の管理担当へ。南側管理経由で派遣されました、現地確認役のアシュレイです」
声は落ち着いていた。
年の頃は二十代後半から三十前後。痩せすぎず、無駄に鍛えすぎてもいない体つき。灰色がかった外套の下には実用寄りの装備。腰には短剣が一本、背には文書筒と小ぶりな杖のようなものが見える。
性別は男でも女でも通るくらいの中性的な印象だったが、声の響きはやや低い。少なくとも、すぐ感情を顔に出すタイプではなさそうだった。
「ローデル管理担当のミレアよ。遠いところをどうも」
「事情が事情ですので」
アシュレイは短く答え、それから視線をずらした。
その先にいたのは、木箱の横で立っているセレネだった。
ほんの一瞬だけ、目が止まる。
銀白の髪。見慣れない耳。年若い少女の姿。
だが、その視線はそれだけで終わらなかった。セレネは内心で小さく息をつく。よく見る目だ。表面の印象だけで処理しない人間の視線である。
「……例の方ですか」
アシュレイが静かに言った。
ミレアは少しだけ肩をすくめた。
「たぶん、あなたが想像してる“例の方”で合ってると思うわ」
「なるほど」
その“なるほど”には、納得と保留が半分ずつ入っていた。
アシュレイはセレネのほうへ向き直る。
「はじめまして。アシュレイです」
「セレネ」
「お名前だけは聞いています」
それ以上は言わない。
礼儀としては十分だが、踏み込みすぎない距離感がある。セレネとしては、そのくらいのほうがありがたかった。
「長旅のところ悪いけど、まずは報告の確認からでいいかしら」
ミレアが言う。
「ええ。現地確認もしたいですが、順番はお任せします」
「話が早くて助かるわ」
「そうでないと山は嫌いますから」
妙な言い回しだが、少しだけ気が利いている。
カイルなら「何それ」とその場で突っ込みそうだな、とセレネは思った。
実際、そのカイルは井戸の近くからこちらを見ていた。手には半端に濡れた桶を持ったままで、明らかに作業の手が止まっている。
「カイル」
ミレアの低い声が飛ぶ。
「見てないで動く!」
「見てないわけじゃないだろ!」
「言い返す元気があるなら水を運びなさい!」
「はーい!」
広場に少しだけ空気が戻る。
アシュレイはそのやり取りを一瞥したあと、詰所のほうへ案内された。セレネも少し遅れて中へ入る。どうせ、自分の話は避けて通れない。
詰所の机には、巨獣討伐の記録とその後の異常報告がまとめられていた。ミレアが必要なものを手際よく並べ、アシュレイはそれを一枚ずつ確認していく。読む速度は速い。速いが、流し読みではない。
「災害級相当個体。白靄の発生あり。残留異常は薄化傾向……」
紙の端を押さえる手が止まる。
「個体の背部に核状反応。破砕により活動停止。……ここは、現認ですか」
「ええ」
「誰が?」
「セレネ」
「単独で」
「正確には、ローデル側の矢による牽制支援はあったわ」
「討伐の決定打は?」
「セレネ」
アシュレイは紙から目を上げた。
その視線が、昨日までよりもずっと静かにセレネを見る。
「確認ですが」
「何だ」
「あなたは、ローデル所属ではない」
「違う」
「来訪から日が浅い」
「そうなる」
「この件以前の記録は、ほぼない」
「ないな」
嘘ではない。
アシュレイは少しだけ考え込むように沈黙した。今のやり取りだけでも、報告書の行間以上の情報は拾えたはずだ。だからこそ、簡単に次の言葉を選ばない。
「……分かりました」
やがてそう言って、紙を戻した。
「まずは現場を見ます。その後、異常の残滓と監視道周辺も確認したい」
「北へ行くのか」
「そのために来ました」
言い切る声に揺れはない。
セレネは内心で頷いた。少なくとも、この人間は机上の文書だけで済ませるつもりではない。現場へ足を運ぶ以上、見るべきものは多少見えるだろう。
見えすぎないといいが、と思わないでもない。
「なら、私も行く」
セレネが言うと、ミレアより先にアシュレイがこちらを見た。
「同行していただけるのですか」
「もともと北の異変は追うつもりだった」
「助かります」
その返答は素直だった。
礼儀としてではなく、本当にそう思っている声だ。
「待った待った!」
今度は詰所の外から、聞き慣れた声が飛び込んできた。カイルだ。桶を置いてきたらしく、手ぶらで肩を怒らせている。
「北行くなら俺もだろ!」
「駄目よ」
ミレアが即答する。
「何で!?」
「何でじゃないわ。あんたはローデルの人間で、地理も分かる。だからこそ軽く使えないの」
「それ駄目な理由になってるか?」
「なってるわよ」
「でも、俺がいないと北の監視道の分かれ目とか――」
「そこは必要だな」
セレネが言うと、ミレアがこちらを見る。
「あなたまで乗らないでくれる?」
「事実だろう」
「事実でも腹が立つ言い方ってあるのよ」
その反応に、アシュレイがほんのわずかだけ口元を緩めた。
見逃さなかった。
この人間、思ったより感情がないわけではない。ただ、出し方が薄いだけだ。
「案内役は必要です」
アシュレイが静かに補足する。
「ローデル側で地理にもっとも明るいのが彼なら、同行が自然でしょう」
「ほら!」
「ただし、戦力としては後衛寄りに置く前提で」
「……おまえまでそういうこと言うのか」
カイルが露骨に肩を落とす。
だが否定はできない顔だった。
彼自身も、前に出るのが最善ではないと分かっているのだろう。
ミレアは額を押さえ、数秒だけ本気で迷ったあと、深く息を吐いた。
「分かった。条件付き」
「やった!」
「はしゃがない。勝手に前へ出ない。単独行動しない。危ないと判断されたら即下がる」
「……はい」
「返事が軽い」
「軽くない!」
「軽いわよ」
セレネはそのやり取りを聞きながら、地図へ目を落とした。北の監視道、その先の遺構群に近いライン、巨獣が現れた位置、残留靄の濃淡。まだ決定的な地図ではないが、流れは読める。
アシュレイがその隣へ立った。
「見方が慣れてますね」
「何が」
「地図の追い方です」
さらりと言われて、セレネは一拍だけ黙った。
「誰でもやるだろう」
「やるでしょうね。ただ、どこから見るかには癖が出ます」
視線が合う。
探るような目ではない。
むしろ、ただ確認しているだけに近い。
この人物は、見えたものをそのまま拾うタイプなのだろう。
「それで、何が見えた」
セレネが聞くと、アシュレイはほんの少しだけ考えてから答えた。
「現場の人間にしては、地図への入り方が静かだと思いました」
「静か?」
「慌てない、という意味です」
それ以上は言わなかった。
たぶん、まだ自分の中でも整理しきれていないのだ。
その曖昧さが、逆に自然だった。
午後に向けて準備が進む。ロープ、簡易食、灯り、記録具、護符。大げさな遠征ではないが、半日で終わる保証もない。ミレアは必要なものだけをまとめ、余計な荷を切った。
「戻りが遅くなるなら、南柵を閉じるわ」
最後にそう言って、彼女はセレネを見た。
「無理はするな、なんて今さら言わない。でも、北の様子を見るのが目的で、倒しに行くのが目的じゃない。それは忘れないで」
「分かってる」
「あなたの場合、その“分かってる”が信用しづらいのよ」
「善処する」
「ほらそれ」
いつもの流れに、少しだけ場が和む。
アシュレイはそれを黙って見ていたが、出発直前になって小さく言った。
「ローデルでの信頼は、思ったより厚いようですね」
「そう見えるか」
「ええ。短期間で築いたにしては」
その言い方は評価とも警戒とも取れた。
セレネは曖昧に肩をすくめる。
「厚いというより、昨日までの出来事が濃かっただけだ」
「それはあるでしょう」
即答だった。
カイルが槍を担いで戻ってくる。表情は張り切っているが、完全に浮ついているわけではない。前回より少しだけ、役割の重みを理解している顔だった。
「準備できた」
「なら行くぞ」
「おう」
ローデルの北柵が開く。
その向こうへ一歩踏み出した瞬間、山の空気はやはりまだ完全には戻っていないと分かった。巨獣を倒しても、異変の根までは切れていない。冷たい風の流れの奥に、どこか薄い歪みが残っている。
セレネはそれを確かめるように目を細めた。
外から来た目。
ローデルで育った目。
そして、自分の目。
この三つが並んで北へ向かう。
何が見えるかは、まだ分からない。
けれど少なくとも、ここから先はただの見回りでは終わらない。
「……面倒が増えたな」
小さく漏らすと、すぐ横を歩いていたカイルが聞き返した。
「何か言ったか?」
「いや。北は静かじゃなさそうだと思っただけだ」
「それは俺も分かる」
カイルが前を見据え、アシュレイは地形を確認し、セレネはその少し前を歩く。
今の誰にも、まだ知られていない線がある。
古い戦いの匂い。
今とは違う技の癖。
それを拾うには、もう少しだけ近づく必要があった。
北へ続く監視道は、三人の足音を静かに飲み込んでいく。