第9話 報告の行き先
巨獣を倒した翌朝、ローデルは不思議な静けさに包まれていた。
誰も休んではいない。
広場では朝早くから人が動き、荷が運ばれ、柵の補強が続き、見張り台では交代の声が飛んでいる。やっていることは昨日までと同じはずなのに、空気の質だけが違った。
張り詰めている、というよりは、何かを確かめるような静けさだ。
セレネは広場の端に立ち、その様子を眺めていた。
身体は重い。
立てないほどではない。歩けるし、息も整っている。だが、昨日の戦いで無理やり動かした部分が、今の身体のあちこちに鈍く残っていた。肩、脚、胸の奥。どれも深刻ではないが、きちんと疲労として居座っている。
巨獣の白い靄の残りか、あるいは無理に踏み込み続けた反動か。
おそらく、その両方だろう。
「起きてていいの?」
後ろから声がして振り向くと、ミレアが帳面を抱えたまま立っていた。今日はいつも以上に忙しいらしく、髪をまとめる紐の位置が少しだけ低い。
「寝ていろと言われるほど弱ってはいない」
「そういう返しすると思った」
「言われ慣れてるのか」
「そうでもないけど、あなたならそう言う」
彼女はセレネの顔色をひと目見て、小さくため息をついた。
「無理はしないで。今日は働かせるにしても、頭と目だけで十分よ」
「優しいな」
「昨日の働きに対する当然の評価です」
その言い方に、少しだけ可笑しさを覚える。
ローデルの人間は露骨だ。良くも悪くも、役に立つかどうかを隠さない。だからこそ、セレネの立場も昨日までとは明らかに違っていた。
広場を見れば、それはすぐ分かる。
荷物を運ぶ男たちが、彼女に気づくと軽く会釈する。見張り台の若者は、あからさまに目を丸くしたあと、どこか気まずそうに視線を逸らす。炊き出しをしている女たちは、昨日までの好奇心まじりの距離ではなく、少し遠慮したような目でこちらを見ている。
まるで、突然“触れてはいけないほど強いもの”に分類し直されたみたいだった。
「……やりづらいな」
「そう?」
「昨日より距離を取られてる」
「そりゃ、あれを見たらね」
ミレアは、広場の北側を見やった。巨獣の死骸はすでに仮の処理場へ移されている。まだ完全には片づいていないが、少なくとも人目につく場所ではなくなった。
「あんなのをひとりで止める子を、昨日までと同じようには見られないわよ」
「面倒だ」
「そういうものなの」
彼女はさらりと言ったが、その口調には少しだけ複雑なものが混ざっていた。
感謝、安堵、警戒。
その全部だろう。
セレネとしても、それは分かっている。自分がローデルを守ったことは事実だ。けれど同時に、ローデルの人々にとって自分は依然として“昨日ふらりと現れた正体不明の少女”でもある。
その二つが、いまこの広場の空気を少しだけ不安定にしていた。
「で、今日は何をしてる」
「報告の整理」
ミレアが帳面を持ち上げる。
「討伐記録、被害報告、残留異常の確認、外への照会文。昨日のうちにだいたいの形は作ったけど、朝になってから追記が多くて」
「どこへ回す」
「補給線の管理、中継拠点、南の遺構管理局、それから北方旧戦域記録保全局の第二管理系統」
最後の名前に、セレネは何も言わなかった。
昨日も見た名だ。
古いものを拾い続ける組織。
まだ残っている、しぶとい記録の系統。
ただ、それだけで誰かを決めつけるには足りない。いまはそう割り切っている。
「今回の件、そこまで大げさに回す必要があるのか?」
尋ねたのはカイルだった。いつの間にか木箱を抱えて近づいてきている。顔には寝不足がはっきり出ていた。
「大げさじゃないわ、カイル」
ミレアが即答する。
「災害級個体が出て、北側の封域と遺構群の異常が絡んでる可能性があって、しかもローデルの外周まで実害が来たのよ。これをこっちだけで抱えてたら、そのほうがあとで怒られる」
「怒られるのか……」
「ものすごくね」
「それは嫌だな……」
少年は顔をしかめたあと、ちらりとセレネを見た。
「でも、昨日あれ倒したのがセレネだって、ちゃんと書くんだろ?」
「書くわよ」
「まんま?」
「まんま」
そのやり取りに、セレネは眉をひそめた。
「そこは少しぼかせないのか」
「何で?」
「正体不明の強者が大きな案件を単独で片づけた、と外に流すのはあまり愉快じゃない」
「安心して。愉快な話として流すわけじゃないから」
「そういう問題ではない」
「じゃあどういう問題?」
「面倒が増える」
ミレアとカイルがそろって黙る。
数秒遅れて、カイルがぽつりと呟いた。
「……それは、たしかに増えそう」
「増えるわね」
「分かるんだな」
「分かるわよ、そのくらい」
ミレアは肩をすくめた。
「でも書かないわけにはいかない。誰が、どうやって、何を倒したのか。そこを曖昧にした報告なんて意味がないもの」
「正論だな」
「いつも正しいとは限らないけど、今回はそう」
反論はしなかった。できない、のほうが正しい。
実際、ここで名前を伏せたところで、ローデルの人間全員が知っている事実は消えない。いずれ外へ漏れる。なら最初から、記録として整った形で出したほうがまだましだ。
ただし、面倒が増えるのは間違いない。
広場の中央では、昨日フェルドが運んできた荷の一部が開封されていた。乾燥保存食、包帯、薬剤、魔導灯用の予備触媒。それらの脇で、ミレアは机をひとつ借り、文書を仕分けている。
セレネはその机へ歩み寄った。
「見せろ」
「やっぱり気になるのね」
「一応、自分の件でもある」
「自覚はあるのね」
紙束を受け取る。
討伐個体の仮分類。出現位置。残留靄の性質。封域異常との関連可能性。記録は簡潔だが、必要なことは押さえている。ミレアのこういうところは信頼できた。
「……よくまとまってる」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
その中に、自分についての記述もあった。
未確認の銀髪少女、単独にて対象を足止めおよび討伐。
現行の地方戦力基準から見て特異。
「“未確認の銀髪少女”」
「事実でしょう?」
「冷静に書かれると少し腹が立つな」
「知らないわよ」
それでも、この文面は必要以上に煽っていない。
“英雄”とも“怪物”とも書いていない。
あくまで記録として淡々としている。
その配慮に少しだけ救われる。
「これ、どのくらいで届く?」
「早ければ二日、遅ければ四日。山道次第ね」
「そんなに」
「小さな拠点だと思ってるでしょ」
「実際小さいだろう」
「小さいわよ。でも小さいなりに、外へ繋がる線くらいは持ってるの」
そう言ったミレアの顔は、少しだけ誇らしげだった。
ローデルは辺境の仮拠点にすぎない。だが、だからといって完全に切り捨てられた場所ではない。人がいて、記録があり、補給があり、外へ届く線もある。
そのことは、セレネにとっても意味があった。
いま自分がいるのは、世界から外れた穴蔵ではない。
ちゃんと今の時代の線路の上にある場所だ。
「セレネ」
呼ばれて顔を上げると、カイルが妙に真面目な顔をしていた。
「おまえ、しばらくローデルにいるよな?」
「どうした急に」
「いや……なんか、外から人が来るって聞いたら、その前にいなくなりそうな気がして」
「失礼だな」
「でも、なくはないだろ」
なくはない。
まったくその通りだった。
セレネは答えずに空を見た。朝の青はもう高く、山の稜線の向こうには薄い雲が帯のように流れている。昨日の巨獣ひとつで終わる話ではない。北にはまだ異変の源があるかもしれず、外では組織が動き始める。
ローデルは足場にはなった。
だが、ずっと留まる場所にはならない。
「今すぐ消えるつもりはない」
そう答えると、カイルは少しだけ安心した顔をした。
「じゃあ、しばらくはいてくれるんだな」
「必要があるうちはな」
「その言い方だと、やっぱり消えそうなんだよなあ……」
ぼやく声が、妙に子どもっぽい。
だが、その素直さに少しだけ救われる気もした。ローデルの人々全員が距離を取るわけではない。カイルのように、そのまま近づいてくる者もいる。
それは悪いことではなかった。
昼前になるころ、最後の報告書がまとめられた。封蝋が押され、宛先ごとに分けられ、伝令用の細筒へ収められていく。
その中の一本に、セレネは一瞬だけ目を留めた。
北方旧戦域記録保全局・第二管理系統。
古い名を、古い記録を、失われた戦いを拾い続ける系統。
そこへ、この小さな拠点の報告が届く。
どんな顔で読まれるのか。
どんな温度で捌かれるのか。
そして、その中にもし、まだ“あの頃”を知る誰かがいるのなら。
思考がそこへ伸びかけて、セレネは目を閉じた。
まだ早い。
昨日決めたばかりだ。
まずは今を知る。
それから先は、そのあとでいい。
「出すわよ」
ミレアの声とともに、伝令役の男が馬へ跨る。荷は軽い。だが、その細筒の中身は軽くない。
ローデルで起きたことは、これで山の外へ出る。
外の目が向く。
組織が動く。
誰かが興味を持つ。
そしておそらく、面倒も増える。
「本当に、面倒なことになりそうだな」
セレネが呟くと、隣のミレアが笑うように息をついた。
「昨日の時点で手遅れよ」
「否定できない」
「でしょうね」
細筒を載せた馬が走り出す。山道の先、小さくなっていくその背を見送りながら、セレネは胸の奥のざわめきを押し込めた。
ローデルの一件は、もうここだけの話ではない。
けれどそれでいい、とも思う。
ここで止めてしまうには、北の異変は大きすぎる。
そして、自分の過去もまた、このまま静かに埋もれてくれるようには思えなかった。
広場を渡る風が、銀白の髪を揺らした。
その細い流れの先で、まだ見ぬ誰かの手元へ、ローデルの報告は運ばれていく。