第8話 白き災い、その名をまだ知らず
北側の柵を越えた瞬間、空気がひとつ薄くなった気がした。
いや、正確には違う。薄いのではない。山肌を這い下りてくる白い気配が、周囲の温度と音を奪っているのだ。風は吹いているのに葉擦れは弱く、土を踏む感触までどこか遠い。
セレネは立ち止まり、前方を見据えた。
白い靄は地面すれすれを流れている。煙のようでもあり、霧のようでもある。だが、自然のそれではない。靄の奥を何かが通るたび、かすかに光が歪む。
重い足音がひとつ。
またひとつ。
木々の隙間で枝が大きく揺れ、その向こうから、ようやく影の輪郭が現れた。
最初に見えたのは角だった。
鹿に似ている。だが、常の鹿とは比べものにならないほど太く、長く、枝分かれした角。その一本一本に白い筋が走り、まるで骨そのものが外へ露出したような異様さがある。
次に、頭部。
首。
肩。
前脚。
巨大だった。
四足の体躯は獣というより岩塊に近い。白灰色の毛皮の下に、不規則な青白い光が脈打っている。目は濁っているはずなのに、こちらを見た瞬間だけ妙に鮮明な知性のようなものが宿った気がした。
「……なるほど」
思わず漏れる。
たしかに、これは厄介だ。
ただ大型なだけではない。群れを率いる核としての圧がある。あの白い靄も、こいつの周囲から流れ出しているように見えた。核が周囲を侵し、侵されたものが変異個体として広がる――そう考えれば、ここ数日の異変にも筋が通る。
巨獣が一歩踏み出す。
地面が鈍く軋んだ。
後ろでローデル側の誰かが息を呑む気配がした。柵の向こう、十分離れた位置に人の視線が集まっているのが分かる。ミレアも、カイルも、見張りたちも、自分たちで守りを固めながらこちらを見ているのだろう。
見せつけるつもりはない。
だが、ここで止めるしかない。
「来い」
小さく言う。
挑発に乗ったわけではないだろう。
けれど巨獣は、正面からこちらへ歩を進めた。
速い。
体の大きさに反して、最初の踏み込みが想像以上に速かった。角を振りかざし、そのまま正面から薙ぎ払うように突っ込んでくる。
セレネは横へ跳ぶ。
風圧が頬を掠める。角の先が、さっきまでいた場所の空気を裂いた。遅れて地面が抉れ、石が弾ける。
「っ……!」
重い。
そして速い。
昨日まで相手にしていた小型や中型とは比較にならない。まともに受ければ、この身体では一撃で終わる。
だが、避けられないほどではない。
巨獣が角を引き上げる。その瞬間、足の運びが半拍だけ鈍る。右前脚。重心移動の癖がある。完全な野生ではない。変質したぶん、どこかに必ず無理が出る。
セレネは地面の石を蹴り上げた。
石片が巨獣の目元へ飛ぶ。目潰しとしては弱い。けれど一瞬でも視線が上がれば、それで足りる。
懐へ入る。
小さな身体だからこそ潜り込める角度だった。巨大な前脚の付け根、その内側へ滑り込み、全力で関節の裏へ打撃を叩き込む。
硬い。
石でも殴ったような衝撃が腕に返る。だが、まったく通らないわけではない。巨獣の体勢が、わずかに揺れた。
「そこか」
もう一撃。
今度は位置を少しずらし、骨の継ぎ目へ。巨獣が低く唸り、前脚を大きく踏み鳴らす。直後、白い靄が爆ぜるように広がった。
セレネは即座に後ろへ跳ぶ。
靄が触れた地面の草が、一瞬で白く乾いていく。生気を削る類の干渉か、あるいは魔力循環そのものを狂わせるものか。どちらにせよ、まともに浴びるわけにはいかない。
「面倒なものまで持ってるな」
巨獣は答えない。
当然だ。
だが、答えがいらない相手のほうが、むしろやりやすいこともある。
ローデル側から矢が飛んだ。
ミレアたちではない。見張りの誰かが、距離を測って撃ったのだろう。矢は巨獣の肩口へ刺さり、浅く止まった。致命傷にはほど遠い。だが、その一瞬だけ巨獣の首がローデル側へ向く。
「見るな」
セレネは低く吐き捨て、地面を蹴った。
巨獣の注意が逸れた瞬間に間合いへ入る。狙うのは顔ではない。首でもない。真正面の硬い部分は切り崩しにくい。なら、狙うべきは足と姿勢だ。
左前脚の外側。先ほどとは逆。
角度を変えて叩き込む。鈍い感触。巨獣の体が半歩ぶれる。そこへ石壁代わりの大木を使って回り込み、さらに横腹へ蹴りを打つ。
重さで押し切られそうになる。だが、そのぶん反応は大きい。巨獣が怒ったように角を振り回し、木を一本まとめてへし折った。
地面が揺れる。
ローデルの柵が軋んだ音が遠くで響いた。
「……これを中へ入れたら、終わるな」
確認するまでもない。
セレネは息を整え、距離を取った。
勝てない相手ではない。
だが、急所が浅い。
変質の核がどこかにあるはずだ。白い靄を生み、群れを引き寄せ、土地そのものを歪める中枢。その位置さえ掴めれば、倒せる。
胸元の奥で、新しい力がかすかに脈打った。
不安定な核。
まだ自分のものではない術理。
触れれば崩れる危うい層。
それでも今だけは、向こうから何かを訴えるように震えている。
「……使うなと言われても、都合よく従える状況じゃないぞ」
誰にともなく呟く。
意識を落とす。
深くまでは行かない。
表層の、もっとも壊れにくい線だけを指先でなぞる。
冷たい光。
術式の輪郭が、いつもより少しだけ長く保たれた。
完全な発動には程遠い。だが、ほんのわずかに、巨獣の周囲を覆う白い靄の流れが見えた。
首元ではない。
胸でもない。
もっと奥、肩甲の間から背へ走る筋。その中心で、何かが脈打っている。
そこだ。
術式は次の瞬間には崩れた。視界がぶれる。軽い眩暈までくる。だが、もう十分だった。
「見えた」
巨獣が再び地面を蹴る。
今度はまともに迎えない。セレネはわざと半歩遅れ、角の軌道をぎりぎりまで引きつけた。白い靄が先に迫る。肺が焼けそうな違和感。だが踏み込む。
体を沈め、角の根元すれすれを抜ける。毛皮と骨の匂いが鼻先を掠めた。巨獣の巨体の横を滑り抜け、そのまま大木の幹を踏み台に飛ぶ。
軽い身体が宙へ持ち上がる。
背中へ届く。
変質の核は、背筋の中心――肩甲のあいだだ。
「――ここだ」
右手を刃のように揃え、全体重を乗せて打ち込む。
硬い殻のような感触のあと、ひとつ奥で何かが割れた。
巨獣が初めて絶叫に近い咆哮を上げた。
白い靄が一気に噴き上がる。セレネは即座に背を蹴って離脱し、地面へ転がるように着地した。無理な踏み込みが続いたせいで、今の身体が思う以上に重い。靄を掠めたせいか、呼吸まで浅くなる。視界が明滅する。だが、効いている。
巨獣の動きが乱れた。
前脚が揃わない。角の振りも荒い。白い靄の広がり方まで不規則になっている。核は壊しきれていないが、確実に崩れた。
「もう一度」
立ち上がる。
ローデル側から、今度は複数の矢が飛んだ。ミレアがタイミングを合わせたのだろう。動きの乱れた巨獣の足元へ、牽制としては十分な数だった。
わずかに止まる。
そこへセレネが走る。
痛みも、疲労も、今は切り捨てるしかない。小柄な身体を限界まで使い、巨獣の外側へ回り込み、損傷した背筋の線をもう一度狙う。
今度は跳ばない。
足を止める暇もない。
斜め後ろから、崩れた岩に踏み上がり、そのまま体を捻って打撃を叩き込む。
鈍い破裂音。
白い光が背中の内側から漏れ、次の瞬間、巨獣の体が大きく傾いだ。
前脚が崩れる。
角が地面へ突き刺さる。
巨体が山肌へ叩きつけられ、地鳴りのような音を立てた。
白い靄が、吹き散る。
残滓が薄く漂い、やがて夜気に溶けるように消えていった。
静寂が戻る。
誰も、すぐには動かなかった。
ローデルの柵の向こうで、人々は呆然と立ち尽くしている。ミレアも、カイルも、弓を持った見張りたちも、皆一様に“何を見たのか”を飲み込むのに時間がかかっている顔だった。
セレネは息を整えながら、倒れた巨獣を見上げた。
動かない。
白い靄の再生もない。
核は潰せたらしい。
「……終わった、か」
その一言を聞いて、ようやくローデル側の空気が動いた。
「た、倒した……?」
「嘘だろ……」
「ほんとに、ひとりで……」
ざわめきが広がる。
カイルが最初に駆けてきた。
「お、おまえ、怪我は!?」
「多少は」
「多少って顔色じゃないだろ!」
「立ててるなら問題ない」
「その基準おかしいんだよ!」
いつもの調子で怒鳴る声に、少しだけ緊張がほどける。
遅れてミレアも来た。彼女はセレネの顔を見て、次に倒れた巨獣を見て、それから小さく息を吐いた。
「……生きて戻りなさい、って命令は守ったわね」
「守った」
「ぎりぎり、って顔してるけど」
「否定はしない」
正直、余裕はない。
胸の奥の核はじくじくと熱を持っているし、さっき無理やり触った不安定な術理のせいで、今の身体そのものがまだ軋んでいる。今ここで第二波が来たら、厄介だった。
だが、少なくとも第一撃は止めた。
ローデルを守れたのなら、それで十分だ。
夜が深まる前に、人々は慌ただしく動き始めた。巨獣の確認、周辺の残存個体の警戒、柵の再確認、負傷者の有無、記録の作成。恐怖のあとには、現実の作業が容赦なくやってくる。
フェルドが残していった記録筒を思い出したのは、ひと段落してからだった。
ミレアは広場の机に紙束を広げ、討伐記録を書き始めていた。見張りの証言、被害状況、出現位置、個体の特徴。その横で、カイルが慣れない字で時刻を書き写している。
「外へ回すのか」
セレネが訊くと、ミレアは顔を上げた。
「回さないわけにいかないでしょう。これはもうローデルだけの案件じゃない」
「そうだな」
「南の管理局、補給線の中継、あとは北方旧戦域の記録系統にも一応送る」
「……そこにも?」
「一応ね。遺構と封域に絡むなら、あっちも無視できないはずだから」
紙の端に押された仮の印章が目に入る。
北方旧戦域記録保全局・第二管理系統。
その名を見た瞬間、セレネは何も言わなかった。
ただ、胸の奥で何かが静かに引っかかっただけだった。
「どうしたの?」
「いや」
首を振る。
「少し、しぶといものは残るんだなと思っただけだ」
「何の話?」
「独り言だ」
ミレアは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。いまは彼女自身も手が離せないのだろう。
広場の火が揺れる。
討伐の報告は、夜のうちにまとめられ、夜明け前には外へ出せる形にされるはずだ。ローデルで起きたことは、この小さな山の拠点だけで消えるには大きすぎた。
そして遠く、別の場所でも。
おそらく誰かが、この報告書を受け取る。
それがどんな顔をして、どんな声で、何を思うのかまでは分からない。
分からなくていい。今はまだ。
セレネは空を見上げた。
白い靄は、もうない。
残っているのは冷たい夜気と、戦いのあとにだけ落ちる、少し澄みすぎた静けさだった。
「……今日は、休め」
ミレアが帳面を閉じながら言う。
「明日になれば、また忙しくなる」
「分かってる」
「あなたが思ってるより、ずっと大きな話になったわよ、これ」
「だろうな」
もう、小さな見回りや局地的な異変では済まない。
ローデルで起きたことは、外へ流れる。
外の組織が、この小さな拠点と、そこに現れた銀髪の少女のことを知る。
その先で、何が動くのか。
まだ見えない。
だが、確実に何かは始まる。
セレネは広場の机に置かれた報告書の束を見つめ、それから静かに目を伏せた。
過去の名は、もう昔話になっていた。
けれど、その残響はまだ、どこかで生きている。
ローデルの夜は、遅くまで灯りが消えなかった。
そしてその光は、山の外へ出る小さな報告書と共に、やがて遠い場所へ届いていく。