第7話 迫るものの輪郭
夕方が近づくにつれ、ローデルの空気は目に見えて重くなっていった。
空そのものはまだ崩れていない。雲は薄く、山肌を撫でる風も冷たいだけで荒れてはいない。けれど、人の動きが違った。広場を行き交う足は早く、声は短く、目が合ってもすぐに逸らされる。
何かが起きる前の空気だ。
セレネは詰所の机に広げられた帳面から目を上げた。
「北沿いで三件、西で一件、東は朝の分を含めて二件。全部、ここ二日の話か」
「ええ」
向かいに座るミレアが頷く。
机の上には、ローデルでつけてきた見回り記録が並んでいた。手書きの帳面に、日付、場所、獣の種類、被害、異常の有無。雑然としているようでいて、積み重ねて読むと流れが見えてくる。
「広がり方が早すぎる」
「私もそう思う」
ミレアは疲れを押し殺した顔で、地図の北側へ印をつけた。
「最初は点だったのよ。採取場ひとつ、見張り杭ひとつ、偶発的な変異獣一体。でも最近は違う。まるで、何かが押し広がってくるみたいに増えてる」
「中心はやはり北か」
「たぶん」
詰所の入口から、カイルが顔を出した。
「見張り台から呼ばれてる。北の尾根で煙みたいなのが見えたって」
「煙?」
「いや、火じゃない。何か白っぽいのが地面這ってるって」
それだけで十分だった。
セレネとミレアが同時に立ち上がる。
「場所は?」
「崩れ尾根の先。古い監視道が北へ折れるあたり」
「最悪の位置ね……」
ミレアの声が低くなる。
そこは、使われなくなった北側の監視道に近い。遺構群へ続く線上でもある。偶然で片づけるにはできすぎていた。
「行く」
セレネが言うと、ミレアもすぐ頷いた。
「私も行く。カイル、見張り台に二人増やして。広場の連中には、まだ騒ぎにしないで待機」
「分かった!」
少年が走っていく。
詰所を出た瞬間、冷たい風が正面から吹きつけた。朝よりもはっきり、乾いた匂いが混じっている。草木の青さではなく、擦り切れた石と、薄く焦げた魔力の匂い。
「……嫌な気配だな」
「いつも以上?」
「悪い意味で、な」
見張り台へ上がると、北の山並みがよく見えた。
崩れ尾根の先。木々の合間に、たしかに何か白いものが這っている。煙に見えなくもない。けれど火の煙ではない。もっと重く、粘るように低い位置を漂っている。
「霧……にしては変ね」
「自然のものじゃない」
セレネは目を細めた。
ただの瘴気なら、もっと荒い。これはむしろ、何かが通った跡に薄く残ったものに近い。道そのものが、あとから白く濁っているようにも見える。
「数は」
ミレアが見張りに訊く。
「まだよく。けど、木が倒れる音が二度あった。大型が混じってるかもしれない」
その答えに、場の空気が一段冷えた。
大型。
《白筋喰い》や小型の変異個体とは訳が違う。ローデルの人数と装備で正面から受ければ、被害は出る。
「避難の準備だけは回した方がいい」
セレネが言う。
「もうそこまで?」
「まだ早いかもしれない。だが遅いよりはいい」
「……そうね」
ミレアは迷いを飲み込むように息を吐いた。
「下へ戻る。カイル!」
「おう!」
「避難袋と、南側の仮柵を確認。動ける人間は荷をまとめさせて」
「え、ほんとに?」
「準備だけよ、まだ。でも急いで」
少年は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いて駆け下りていった。
見張り台を降りながら、ミレアが低く言う。
「あなた、本当にこういう時だけ判断が早いわね」
「遅い判断に価値はない」
「その言い方、嫌いじゃないけど腹は立つ」
それは良かった、と返す余裕はなかった。
広場ではすでにざわつきが広がり始めている。ミレアが短く指示を飛ばすたび、人が動く。水、火、荷、見張り、子どもと老人の待機場所。小さな拠点だからこそ、守るべき場所も、人も、近い。
セレネは北側の柵まで歩き、地面に膝をついた。
土を指でなぞる。まだ何も来ていない。けれど、浅い振動がある。ほんのわずかだが、一定ではない揺れ方だ。群れというより、重いものがいくつか不規則に動いている。
「どう?」
後ろからミレアの声。
「近づいてる。数は多くない」
「少ないなら助かる?」
「質が悪ければ同じだ」
「つまり、助からない可能性の方が高いと」
「そういうことだ」
正直に言うと、ミレアは顔をしかめた。
「ほんと、容赦ないわね」
「必要かと思ってな」
隠しても仕方がない。ローデルはいま、希望的観測で耐えられる段階ではない。
そのとき、広場の反対側から声が上がった。
「ミレア! 北柵の外、獣避け杭が三本まとめて折られてる!」
見に行く。
たしかに杭はへし折れていた。引き抜かれたのではなく、重いものが真正面から薙いだような壊れ方だ。しかも一本ではない。何かが群れのように押し寄せ、そのまま通ったとしか思えない。
セレネは折れた木口へ触れた。新しい。ついさっきだ。
「……速いな」
「まだ山の向こうじゃなかったの?」
「先行してる個体がいる」
あるいは、煙のように見えたもの自体が囮かもしれない。
嫌な想像だった。こういう動きは、ただ変異しただけの獣にしては妙に筋が通りすぎている。
「ローデルの外周、全部見直す。西と東も」
ミレアが言う。
「人が足りない」
「分かってる。でもやるしかないのよ」
そこで、カイルが息を切らして戻ってきた。
「北側の斜面、足跡だらけだ! あと――でかいのがいる!」
「見たのか?」
「一瞬だけ! 木の向こう! 鹿みたいに角があって、でも身体はもっとでかくて……何か、白いのまとってるみたいな……」
鹿。
角。
白いものを纏う大型。
その情報が胸の奥で嫌な形に噛み合う。セレネは反射的に北を見る。白く這うような気配。大型。群れではなく、それを中心に動く何か。
「主か」
「何?」
「群れじゃない。中心がいる」
言った瞬間、自分の中で確信に近いものが生まれた。いままで見てきた小型も中型も、広がり方が妙だった。自然発生ではなく、どこかから押し出されてきたような流れ。なら、その流れを作る核がいる。
「ローデルの外で止めるべきだ」
セレネが言う。
「分かってる。でも誰が?」
ミレアの問いは、ほとんど答えを知っていた。
カイルが黙る。
見張りの男たちも視線を逸らさない。
セレネは小さく息を吐いた。
「私が前に出る」
「ひとりで?」
「必要ならな」
「必要“なら”じゃないでしょ、もう」
ミレアの声は強かった。だが怒っているというより、必死に現実を呑み込もうとしている声だった。
「あなたが強いのは分かった。でも、強いからって全部ひとりで押しつけるつもりはないわ」
「押しつけられているわけじゃない。最適な配置を言っているだけだ」
「その言い方が腹立つのよ!」
珍しく感情が表に出た。
けれどセレネは怒らなかった。ミレアが言いたいのは、そこではない。
彼女はローデルを守る責任を持っている。だからこそ、突然現れた銀髪の少女ひとりに全部を賭ける判断を、簡単にはしたくないのだ。
「……なら、役割を分けろ」
セレネは静かに言った。
「私は前で止める。ローデルは柵と避難を固める。万一抜けた個体だけ、後ろで叩け」
「それで足りると思う?」
「足りなくても、それが一番ましだ」
沈黙が落ちた。
風だけが、北から冷たく吹いてくる。
やがてミレアは歯を食いしばるように短く息を吐き、頷いた。
「……分かった。受ける」
「ミレア」
「ただし、無茶はするな、なんて言わない。するんでしょうから」
「助かる」
「でも、生きて戻りなさい。それだけは命令」
その一言に、セレネはほんの少しだけ目を細めた。
「了解した」
指示が走り始める。
ローデルの人々が、慌ただしく動く。荷をまとめる者、子どもを南側へ移す者、柵の補強に走る者、矢束を運ぶ者。小さな拠点が、持てるだけの力を絞り出して守りの形を取っていく。
カイルが槍を握ったまま近づいてきた。
「俺も行く」
「駄目だ」
「即答かよ」
「お前は後ろだ。ローデルを見ろ」
「でも――」
「聞け、カイル」
少年が口を閉じる。
「前は、ひとりでもいい」
「よくない」
「後ろは、ひとり減るだけで崩れる」
それは事実だった。
カイルは悔しそうに顔を歪めたが、反論は飲み込んだ。代わりに槍を握る手に力が入る。
「……死ぬなよ」
「善処する」
「それ、信用できないんだよなあ……」
それでも、最後には無理やり笑った。
セレネは視線を北へ戻す。
山際の木々の向こう、白い気配がまた動いた。今度は前よりはっきり見える。低く這う霧のようなものの奥で、何か巨大な影が揺れている。
輪郭だけで、十分だった。
大きい。
重い。
そして、おそらく群れの核だ。
あれをローデルへ入れれば終わる。
セレネは無意識に胸元へ意識を落とした。新しい力の核は、相変わらず深い場所で不安定に脈打っている。使えないわけではない。だが、いま頼るには危うい。
なら、やることは変わらない。
旧来の知識。
旧来の戦術。
そして、今の身体でできる最適解。
「来る」
誰にともなく言った声は、静かだった。
その静けさのまま、セレネは北側の柵を越える。銀白の髪が、吹きつける風に揺れた。
ローデルの人々は、その背を見ていた。
小さな拠点にふいに現れた、見慣れぬ少女。
けれど今、その誰よりも前へ出て、災厄の方角へ歩いていく背中を。
山道の先で、木々が大きく揺れた。
白い霧のようなものが、ゆっくりとこちらへ流れ下りてくる。
その奥で、角を持つ巨大な影が、はっきりと首をもたげた。
そこでようやく、ローデルの誰もが理解した。
これは、今までの延長ではない。
そしてセレネもまた、静かに息を吐く。
――なるほど。
たしかに、ひどく面倒な相手だ。
だが、逃がすわけにはいかない。
白い気配が夜の前触れのように広がり、北の山際を覆っていく。
災害級の輪郭は、ついにローデルの前へ姿を現そうとしていた。