第6話 古い名の残響
午後の見回りから戻るころには、ローデルの空気は朝とはまた別の意味で張り詰めていた。
広場の中央には、見慣れない荷車が一台止まっている。荷台には木箱と麻袋、それから封蝋のついた細長い筒がいくつも積まれていた。行商にしては警戒が厳しく、ただの補給便にしては人員が少ない。
「珍しいな」
セレネが呟くと、隣を歩いていたカイルが声を潜めた。
「山向こうからの定期便だよ。物資と手紙を持ってくるやつ」
「定期便にしては、ずいぶん慌ただしい」
「最近は来るたびそんな感じだ。前みたいに、のんびり雑貨だけ運んでくるようなのじゃなくなった」
そう言って少年は肩をすくめる。
広場ではミレアが、外套姿の男と話していた。男は中年で、旅慣れた雰囲気をしている。武器を見せびらかすタイプではないが、腰の短剣や靴の傷み方を見るに、荷物運びだけの人間でもなさそうだった。
「戻ったか」
こちらに気づいたミレアが片手を上げる。
「ちょうどいいわ。東と北の報告もまとめたい」
「北も荒れてたのか?」
「ええ。朝より悪い知らせばかり」
彼女は疲れを隠さない顔で帳面を閉じた。
「まず先に、こっちはフェルド。定期便と、外からの情報を持ってくる人」
「どうも」
フェルドと呼ばれた男は、セレネをひと目見て少しだけ眉を上げた。銀白の髪と耳に視線が行ったのだろうが、余計なことは言わなかった。
「変わった顔ぶれだな、ローデルも」
「事情が事情だからね」
ミレアが淡々と返す。
「それで、持ってきた情報の方は?」
「物資不足、北の街道封鎖が一部継続、山沿いの集落で変異獣の確認が三件増えた。それから――」
そこでフェルドは一枚の紙を取り出した。
「旧遺構群の記録照会について、南の管理局から返答が来てる」
「早かったわね」
「珍しくな」
管理局。
その言葉に、セレネは何気ない顔のまま意識を向けた。
フェルドが紙を広げる。ミレアは覗き込みながら眉をひそめた。
「照会対象が古すぎるのよ。こっちは今起きてる異変に繋がるものが欲しいのに」
「仕方ないさ。古い遺構の再分類なんて、どこも後回しだ」
「後回しにした結果が今でしょうに」
もっともな言葉だった。
セレネは少し距離を置いた位置から、紙の端をちらりと見た。印章、分類番号、旧王国式の文書様式。昔見たものと完全に同じではないが、系譜は近い。
やはり時代は進んでいる。
だが、すべてが切れてしまったわけでもない。
「気になる?」
いつの間にか、フェルドがこちらを見ていた。
「少しな」
「文字は読めるか?」
「ある程度は」
「なら読んでみるか? どうせローデルの連中だけで抱えても頭が増えるわけじゃない」
意外な申し出だった。
ミレアがちらりとフェルドを見たが、止めはしなかった。彼女としても、いまは少しでも視点が欲しいのだろう。
紙を受け取る。
内容は、山域北部に点在する旧遺構群の管理記録と、過去数年の異変報告の照合結果だった。文面はお役所らしく回りくどいが、要点は読める。
封域の魔力流動に偏りあり。
一部で古い術式反応の再活性化を確認。
ただし、原因の特定には至らず。
そこまでは想定の範囲だ。
だが、最後のほうにある参考資料の項目で、セレネの指が止まった。
参考照会先:北方旧戦域記録保全局・第二管理系統
知らない名前ではない。
正確には、今の名前としては知らない。だが“北方旧戦域の記録を追い続ける系統”という存在の在り方には、覚えがあった。ヴァレンハイトだった頃、前線と後方の記録管理はもっと雑で、同時に一部だけが異様に執念深かった。
失われた戦い。消えた人間。記録から消せない名前。
そういうものを拾い集める者たちがいた。
「何かあった?」
ミレアに問われ、セレネは紙から目を離した。
「この照会先、古い戦域記録まで管理しているのか」
「らしいわね。正直、私も詳しくは知らないけど」
「有名なのか?」
「有名っていうほどじゃない。ただ、“古い記録を掘るのが仕事の連中”っていう認識はあるわ。面倒なくらい細かいって噂は聞く」
その言い方に、セレネは内心でひとつ息を吐いた。
細かい。
執念深い。
古い記録を追う。
誰かを連想するには十分すぎる要素だった。
とはいえ、まだ早い。組織名だけで何かを断定するには材料が足りない。今の自分はどうしても、過去に繋がるものへ敏感になりすぎている。
「何か心当たりでも?」
フェルドの問いに、セレネは首を横に振った。
「いや。ただ、こういう部署がまだ生きているのかと思っただけだ」
「まだ?」
「……古いものほど、先に切られると思っていた」
「それはそうだな。けど、しぶとく残るもんもある」
しぶとく、か。
その表現は妙にしっくり来た。
広場の隅で、カイルが荷車の木箱を覗き込んでミレアに叱られている。その様子を横目に、セレネはもう一度文書へ視線を落とした。
異変の流れは北へ伸びている。
遺構群の異常も、封域の偏りも、それを裏づけている。
そして外では、それを拾い集めている組織が確かに動いている。
ローデルの問題は、やはりここだけの話では終わらない。
「顔が難しくなってるわよ」
ミレアの声で我に返る。
「そうか?」
「そう。何か分かった顔」
「分かったというより、面倒が増えたと分かった顔だな」
「それなら私たちと同じね」
彼女は小さく肩をすくめた。
「で、どう思う?」
「異変は局地的じゃない。少なくとも、東と北に別々の偶然が重なっているわけではなさそうだ」
「続けて」
「流れがある。広がり方に筋があるなら、起点か、あるいは核になる何かがどこかにあるはずだ」
「遺構?」
「可能性は高い。だが、遺構ひとつだけの話とも限らない」
フェルドが腕を組む。
「つまり、ローデルで起きてるのはもっと大きな厄介事の端だと」
「たぶん」
「嬉しくない答えだな」
誰にとってもそうだろう。
だが、嫌だからと目を逸らして済む話でもない。
ミレアはしばらく無言で考え込んでいたが、やがて帳面に新しい線を引いた。
「……北の崖沿いに、古い監視道があったわね」
「ああ。今はほとんど使ってないけど」
「そこから先、遺構群へ近づける?」
「近づけるが、今の人手じゃ厳しい」
「人手なら一応、増えたでしょう?」
言って、彼女はセレネを見る。
カイルまでつられてこちらを見た。
「何だ、その露骨な顔は」
「いや、だって増えてるし」
「一人だけどな」
「一人だけど変に強いし」
「カイル」
「すみません」
ミレアに叱られて、少年は素直に引っ込んだ。
セレネは小さく息をつく。露骨なのは嫌いではないが、こうも当てにされると少し調子が狂う。
「北の監視道を確認したいのか」
「できれば。すぐじゃなくてもいい。でも、このまま東だけ見ていても埒が明かない気がするの」
「妥当だな」
そう答えながらも、彼女の意識は文書の端に残ったままだった。
北方旧戦域記録保全局。
その名が、妙に引っかかる。
今の自分にとって重要なのは、今の世界を知ることだ。そう決めた。
だが、過去が向こうから痕跡を残してくるなら、まったく無視することもできない。
どこかで、誰かが、まだヴァレンハイトという名の周辺を拾い集めている。
その事実だけで、胸の内側に小さな波が立った。
「セレネ?」
ミレアに再び呼ばれ、彼女は紙を机へ戻した。
「悪い。少し考えていた」
「考えごとの多い子ね」
「起きたばかりで世界が変わっていたら、誰でも多くなる」
「それは……まあ、そうね」
完全には理解していない顔だったが、否定もしなかった。
フェルドは荷台の方へ戻りながら、最後にひとつだけ言った。
「明日にはまた南へ戻る。追加で照会したいものがあるなら、今夜のうちにまとめとけ」
「助かるわ」
「礼は物資を受け取ってからにしてくれ。山道が無事ならの話だ」
男が去ると、広場のざわめきが少し戻ってきた。荷下ろし、帳面、見張り交代、夕方前の慌ただしさ。ローデルの人々は、異変が大きいほど、逆に手を止めない。
セレネはその様子を見ながら、ふと広場の端の掲示板へ目をやった。
古びた紙。
過去の名。
そして今、別の文書に残っていた、過去を追う組織の影。
線はまだ細い。
だが、確かにどこかへ繋がっている。
「……どうしたの?」
今度はミレアではなく、通りがかった年若い女が不思議そうに首を傾げた。おそらく炊き出しを手伝っていた者だろう。腕に布を抱えたまま立ち止まっている。
「何でもない」
「そう? 難しい顔してるから」
「そう見えるか」
「見えるわよ。綺麗な子ほど、難しい顔してると目立つもの」
気軽にそう言って、彼女は去っていった。
綺麗な子、か。
ヴァレンハイトだった頃には、まず言われなかった言葉だ。
その事実に妙な可笑しさを覚えて、セレネはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
今の姿で生きること。
今の世界を知ること。
その先で、過去とどう向き合うかを決めること。
どれもまだ途中だ。
けれど、途中だからこそ見えるものもあるのかもしれない。
空を見上げると、夕暮れにはまだ早いのに、山の稜線の向こうには薄い雲が広がっていた。北から来る風は冷たく、わずかに乾いている。
ローデルの異変は、まだ入口にすぎない。
セレネは静かに視線を戻し、ミレアの持つ帳面へ目を向けた。
「今夜、記録を見せてくれ」
「手伝う気になった?」
「最初からそのつもりだ」
「そういうところだけは頼もしいのよね」
呆れたように言いながら、ミレアは帳面を抱え直した。
「じゃあ、夕食のあと。東と北、両方の記録を出す」
「分かった」
答えながら、セレネは胸の奥に沈む気配をひとつだけ意識した。
エルデシアは相変わらず沈黙したままだ。
だが、今はそれでいい。
答えが返らなくても、自分で拾えるものはある。
残された記録も、変わってしまった土地も、人の口から零れる断片も。
この時代を知れば、いずれその先へも届くだろう。
そして、その先にもし、あの頃の誰かへ繋がる線があるのなら――
そこまで考えて、セレネは自分の思考を止めた。
まだ早い。
いまは、ローデルと北の異変だ。
広場を渡る風が、銀白の髪をひと房だけ揺らしていく。
その細い流れの向こうで、過去の名はまだ、静かに残響していた。