第5話 見回りと違和感
ローデルを出たのは、朝の気配がようやく山の奥まで届き始めたころだった。
空は高く晴れている。けれど山道に差す光はまだ薄く、木々のあいだから落ちる影が長い。昨夜は月明かりの中を歩いたせいで曖昧だった景色も、朝になれば細部までよく見えた。
「今日は東側の見回りな」
先を歩くカイルが振り返る。
背中の短槍は昨夜と同じだが、腰に小さな鉈まで下げている。採取と警戒を兼ねているのだろう。歩き慣れた足取りで、岩の多い山道を軽々と進んでいく。
「東側は比較的ましなんじゃなかったのか」
「“比較的”な。安全って意味じゃない」
「便利な言い回しだな」
「ローデルじゃ便利な言い回しほど役に立つんだよ」
それは妙にもっともらしく聞こえた。
セレネは周囲を見ながら後に続く。歩き始めてほどなく分かったが、昨日よりも身体の扱いは少しましになっていた。少なくとも、段差を越えるたびに重心がずれて腹立たしくなる、というほどではない。
とはいえ、慣れたとは言いがたい。
高い岩を一つ飛び越えたあと、着地がわずかに前へ流れた。すぐに立て直したものの、前を歩いていたカイルが振り返る。
「大丈夫か?」
「問題ない」
「昨日からそればっかり言ってる気がするな」
「問題があるときはそう言う」
「ほんとかよ……」
少年は半分あきれ顔で前を向き直った。
彼にしてみれば、見慣れない銀髪の少女が見回りに同行している時点で十分に問題だろう。しかも昨夜は《白筋喰い》をひとりで倒している。警戒するなというほうが無理がある。
そのわりに、こうして普通に会話を続けてくれるのだから、性格としては案外素直なのかもしれない。
「で、見回りって何を確認するんだ」
「痕跡。獣の通り道、柵の傷、変な魔力の残り方、採取場の荒れ方。あとは薬草がまだ使えるかとか、川の水が濁ってないかとか」
「ずいぶん広いな」
「人が足りないって言っただろ」
たしかに、ローデルの規模で分担が細かいはずもない。
少し歩くと、道の脇に何本かの杭が打たれているのが見えた。上部に小さな鈴と、紐で括りつけられた札がある。昨夜の暗さでは分からなかったが、簡易の警戒線らしい。
セレネはそのうちの一本の前で足を止めた。
「どうした?」
「……これ、切れてるな」
「え?」
カイルが戻ってきて杭を見上げる。鈴はついている。札もある。ぱっと見ただけでは異常はない。だが紐の張り方が少しおかしい。何かに引っ掛かって一度千切れ、結び直した痕がある。
「昨日のうちに直したわけじゃないのか」
「いや、ここは一昨日見たとき無事だったはずだけど……」
彼は膝を折って地面を見る。だが足跡ははっきりしない。昨夜のうちに風が砂を流したのだろう。
「分かるのか?」
「切れた場所の高さが違う」
セレネは札の位置を指した。
「元はもっと低かったはずだ。結び直した者が急いでいたのか、少し上にずれてる」
「いや、そんなの見ただけで……」
そこでカイルが言葉を切る。
少年の目が、杭の根元から少し離れた藪へ向いた。葉の倒れ方が、たしかに不自然だ。風で流れたのとは違う。何かが外から中へ押し分けて入った痕になっている。
「……ほんとだ」
「見回りはこういうのを拾うんだろ」
「おまえに言われると、何か腹立つな……」
納得しているのかしていないのか分からない声だった。
彼らはそこから周囲を慎重に調べた。藪の奥へ踏み込むと、下草の間に毛がひっかかっている。灰色。だが《白筋喰い》ほど濁ってはいない。もっと小型の獣だろう。
「群れの斥候か」
「そこまで分かるのか?」
「可能性の話だ。単独ならもっと荒い動きになる」
セレネは毛を指先でつまみ、光に透かした。毛先にごく薄く青い変色がある。やはり、何かが広がっている。
「これも変異の前兆かもしれない」
「前兆って」
「まだ深くはない、という意味だ」
カイルは顔をしかめた。
「深くなったらどうなる」
「昨夜のようなものになる」
「笑えねえな……」
そのまま見回りを続ける。途中、採取場の薬草をいくつか確認したが、こちらも半分ほどは葉脈に薄い変色が出ていた。すぐ毒になるほどではないが、放っておけば使えなくなるだろう。
川沿いへ降りたときには、セレネの中で違和感がだいぶ形を持ち始めていた。
ばらばらではない。
草、獣、警戒線、土の魔力の揺れ方。全部が少しずつ同じ方向へずれている。偶然ではなく、何かの流れがある。
「カイル」
「何だ」
「この辺りで、一番最初に異変が出たのはどこだ」
「え? いや、たしか北の崖寄りの採取場だったかな……でもそのあと遺構近くでも変なの出て」
「順番は」
「そこまで細かくは……あ、でもミレアなら帳面で見れば分かるかも」
やはり記録を追う必要がある。
感覚だけで辿るには情報が足りない。けれど、もし異変の広がり方に筋があるなら、起点に近づくことはできるかもしれない。
セレネは川辺にしゃがみ込み、水面を覗いた。透明度はまだ保たれている。だが流れの底に、ごくわずかに濁った筋が混じっている。これは上流から来ているものだ。
「これもか……」
「何か見えるのか?」
「見えるというより、残ってる」
水に手を差し入れる。冷たい。魔力の感触は薄いが、均一ではない。昔ならここまで荒れなかっただろう。
そのとき、不意に背後の茂みが揺れた。
カイルが短槍へ手をかける。
セレネも反射的に立ち上がる。
飛び出してきたのは、小型の獣だった。狐に似ているが、背が少し高く、眼の周りに青い筋が走っている。まだ変異が浅い個体だ。こちらを見た瞬間、威嚇するように低く唸る。
「下がってろ」
「言われなくても――」
そう言いつつ、カイルは半歩だけ下がった。判断としては悪くない。前に出て足手まといになるよりはましだ。
獣が低く身を沈める。
来る。
セレネは一歩だけ横へずれた。小さな身体は軽い。今朝からの歩きで、その軽さをようやく“使う”ほうへ回し始めている。飛び込んできた獣の軌道を見て、最小限の動きで外し、すれ違いざまに首の横を打つ。
骨格は同じ。変異しても急所の位置までは大きく変わらない。
獣が地面を転がる。そこへもう一体、茂みから飛び出した。
「まだいたのか」
今度は少し速い。けれど、昨日ほどの不意ではない。セレネは足場の石を蹴って体勢をずらし、飛びかかってきた個体の腹の下へ潜るように抜ける。すれ違いざまに前脚の関節を払うと、獣は派手に転倒した。
そこへカイルの槍が突き出される。
深くは入らない。だが牽制には十分だった。獣がたじろいだ隙に、セレネが石を拾って側頭部へ叩き込む。
短い呻き声のあと、動きが止んだ。
静かになる。
川音だけが、何事もなかったように流れていた。
「……今のは連携って言っていいのか?」
槍を引きながら、カイルが何とも言えない顔をする。
「自分で言うな」
「いや、だっておまえ、普通そこで素手でいくか?」
「武器がないからな」
「そこなんだよなあ……」
彼は倒れた獣を見下ろし、ため息をついた。
「ローデルじゃ、変異しかけの小型が二体なら“ちょっと面倒”くらいだ。なのにおまえがいると、妙に簡単に見える」
「実際はそんなに簡単でもない」
「その言い方で説得力出ると思うか?」
出ないかもしれない。
セレネは膝をついて獣の体表を確かめた。やはり《白筋喰い》ほど深くはないが、同じ方向の変質が出ている。偶発ではない。流れは繋がっている。
「これ、持って帰るか?」
「一体分でいい。証拠にはなる」
「はあ……朝から重労働だ」
文句を言いながらも、カイルは手際よく縄を取り出した。そういうところは頼もしい。
ローデルへ戻る道すがら、彼は何度かこちらを見ては、何か言いたそうに口を閉じた。やがて耐えきれなくなったのか、坂を上る途中でついに口を開く。
「なあ、セレネ」
「何だ」
「おまえ、ほんとに何者なんだ?」
昨日も聞かれた問いだ。
だが今は、少しだけ意味が違う。
昨夜のそれは警戒だった。今のそれは、半分以上が純粋な疑問だ。
セレネは少し考えてから、山道の先を見た。
「私も、それを確認している途中だ」
「……は?」
「今はそうとしか言えない」
「いや、余計分かんないけど……」
もっともだ。
けれど、下手な嘘よりはまだ本当だった。何者かと問われて、昔の名を名乗ることはできない。今の名は得たばかりだ。力も未完成で、今の世界における立ち位置もまだない。
なら、途中だと言うしかない。
ローデルの柵が見えてくるころには、朝の光もだいぶ強くなっていた。広場にはすでに人が増えていて、荷運びや修理に追われる姿があちこちにある。
彼らが獣の死体を持ち帰ると、すぐ何人かが寄ってきた。
「また出たのか」
「東側まで来てるの?」
「昨日の件だけじゃなかったのかよ……」
ざわめきが広がる。ミレアもほどなく姿を見せ、獣の状態を一目見るなり眉を寄せた。
「深くなるのが早いわね」
「警戒線も一か所切られてた」
「記録と照らす必要があるわね……」
ミレアはすぐ帳面を開き、忙しなく何かを書き込み始める。そこへカイルが口を挟んだ。
「あと、これ見つけたのほとんどセレネだから」
「ほとんど?」
「いや、全部かも」
「言い直した意味あるの、それ」
ミレアは呆れたように言いながら、帳面から顔を上げた。
「……なるほどね」
その視線は、昨夜より一段深い。
ただの余所者を見る目ではなくなっている。
「あなた、見回りの経験あるの?」
「ある」
「どの程度」
「長い」
「雑」
即座に切られた。
「でも、雑なくせに外してないのが腹立つわ」
「褒め言葉として受け取っておく」
「勝手にしなさい」
ミレアは帳面を閉じると、広場の北側を見やった。
「東でこれなら、西と北も放置できない。今日の午後、もう一度人を回す」
「なら私も行く」
「疲れてないの?」
「疲れてはいる」
「いるのね」
「だが、今動いたほうがいい気がする」
その言葉に、ミレアは少しだけ考え込んだ。
彼女は責任を背負う側の顔をしている。軽率に動きたくない。しかし、事態が悪化しているのも分かっている。その逡巡が短い沈黙に出ていた。
「……分かった。午後も頼む」
「了解した」
「即答されるとこっちが不安になるのだけど」
「今さらだな」
「ほんとにそうね……」
広場のざわめきは、まだ収まらない。
たった半日の見回りで、ローデルの抱えている綻びは思った以上にはっきり見えてきた。しかも、それはただの山村の困りごとではない。もっと大きな流れの端が、ここに触れている。
セレネは広場の向こう、北の山並みを見上げた。
何かがある。
まだ名はない。輪郭も足りない。
けれど確実に、何かがこの時代の地形と生き物と人々の暮らしを少しずつ歪めている。
ならば、その流れを追う必要がある。
それがヴァレンハイトの過去に繋がるかどうかは、まだ分からない。だが少なくとも、今ここで見えているものを見過ごすわけにはいかなかった。
「……忙しくなりそうだな」
「何か言ったか?」
獣の処理を手伝いながら、カイルが顔を上げる。
「いや。少し、この拠点の事情が見えてきたと思っただけだ」
「それならついでに荷運びも見えてくれ。人手足りない」
「容赦がないな」
「使えるやつは使うんだよ」
そう言って笑う少年の顔を見て、セレネは小さく息をついた。
仮の居場所だ。
けれど、その仮の場所は、思ったより早く彼女を“今の世界”へ引きずり込み始めていた。