第4話 小さな拠点の朝

 目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは木を割る音だった。

 乾いた、規則的な音。外からだ。ひとつ、ふたつ、少し間を空けてまたひとつ。朝の仕事としてはずいぶん堅実な音で、妙に耳に残る。

 セレネは薄く目を開き、しばらく天井を見上げていた。

 石造りの天井は低く、昨夜と変わらずひんやりとした気配をまとっている。窓から差し込む光はやわらかい。まだ朝の早い時間らしく、部屋の中は半分ほど影のままだった。

 知らない寝台。知らない部屋。知らない拠点。

 そこまで確認して、ようやく昨夜の流れがきちんと繋がる。

 ローデル。
 山中の小拠点。
 カイル。
 ミレア。
 《白筋喰い》。

 そして、掲示板に残っていたヴァレンハイトの名。

「……朝か」

 自分の声が、静かな部屋に落ちる。

 まだ少し慣れない。だが昨夜ほどではない。繰り返し聞いているうちに、ようやく“自分の声として扱うしかない”という諦めがついてきたらしい。

 寝台から身を起こす。銀白の髪が肩から流れ落ち、胸元をかすめた。長い。まだやはり少し邪魔だ。これも、そのうち慣れるしかないのだろう。

 窓の外を覗くと、ローデルの朝はもう始まっていた。

 広場では、何人かが焚き火台のそばで湯を沸かしている。見張り台には夜番の者と入れ替わる人影があり、その下では獣避け用の杭を打ち直している若者たちがいた。井戸の周りでは女たちが桶を並べ、少し離れた場所では荷車の車輪を修理している男がいる。

 小さな拠点だ。

 それでも、止まってはいない。

 むしろ小さいからこそ、ひとつひとつの仕事に無駄がない。動きに余裕はなく、誰もが何かを抱えたまま朝を迎えているように見えた。

 セレネはしばらくその光景を眺め、それから静かに立ち上がった。

 昨夜よりは、身体のずれも少しだけましだ。完全にはほど遠いが、少なくとも寝起きで転びそうになるほどではない。歩幅と重心を意識すれば、だいぶ整えられる。

 扉を開けると、外の冷たい空気が流れ込んできた。

 広場へ出ると、ちらりとこちらを見る者が何人かいた。昨夜、遺構帰りの見慣れない銀髪の少女が一晩泊まったのだから当然だろう。露骨に警戒されるほどではないが、好奇の視線はある。

「起きたか」

 声のしたほうを見ると、ミレアが帳面を抱えたまま立っていた。朝の光の中でも、やはり隙のない印象の女だ。髪はきっちりまとめられ、外套の前も乱れなく整えられている。

「おはよう、でいいのかしら」
「時間帯としては正しいな」
「可愛げのない返しね」
「善処する」

 そう答えると、ミレアはほんの少しだけ眉を動かした。笑ったわけではないが、昨夜よりは表情が柔らかい。

「話せる?」
「話す内容による」
「朝から面倒な子ね。安心して、尋問じゃないわ。半分くらい確認よ」
「半分は尋問なんだな」
「それくらいはする権利があると思ってるのだけど」

 否定はできない。

 セレネはミレアに続いて、広場の端にある小さな詰所のような建物へ入った。中には机と椅子、壁際の棚、地図、帳面の束。どうやらここがローデルの事務や記録を扱う場所らしい。

 ミレアは椅子をひとつ示した。

「座って」
「助かる」

 腰を下ろす。木の椅子は硬かったが、文句を言うほどではない。

 ミレアは向かいへ座り、帳面を開く。視線だけはこちらから外さない。やはり観察する目だ。

「まず確認。名前はセレネ」
「ああ」
「姓はない」
「今はない」
「その言い方、まだ気になるのだけど」
「気にするな」
「気になるものは気になるのよ」

 もっともだ。

 ミレアは帳面に何かを書き込みながら、少し間を置いた。

「カイルからは、“山の遺構で目覚めた変な子”って聞いてる」
「ひどい説明だな」
「否定できる?」
「完全には」
「じゃあ、そういうことにしておくわ」

 思った以上に話が早い。

 いや、早く処理しないと回らないのだろう。ローデルの規模で、余所者ひとりに長時間かまっていられる余裕はなさそうだった。

「で、その“変な子”は、どこまで話せるの?」
「全部は無理だ」
「全部を期待してるわけじゃないわ。今必要なのは、あなたがローデルに害をなすかどうか、それだけ」

 シンプルでありがたい。

「そのつもりはない」
「昨夜の《白筋喰い》は」
「倒した」
「ひとりで」
「そうなる」
「やっぱりそこは変なままね……」

 ミレアは軽くこめかみを押さえた。

「ただの流れ者じゃないのは分かる。問題は、その“ただじゃなさ”がこっちにとって厄介かどうか」
「判断は?」
「保留」

 即答だった。

「助けられたのは事実。カイルも無事に帰ってきた。そこは感謝してる。でも、それと信用は別よ」
「妥当だ」
「話が早くて助かるわ」

 彼女は机の上の地図へ目を落とした。手書きで周辺の山道や危険地帯が記されている。古い線の上に、新しい印がいくつも重ねられていた。

「ローデルは見ての通り、小さな拠点よ。北の山道と遺構群の監視、それから周辺採取の中継で成り立ってる。昔はもっと余裕があったらしいけど、ここ二年ほどで事情が変わった」
「《白筋喰い》みたいなものか」
「そう。ああいう変異種が増えた。種類も、出る場所も、少しずつおかしくなってる」

 やはり昨夜の違和感は間違っていなかったらしい。

「原因は分かってないのか」
「分かってたらこんな山奥で帳簿抱えて頭を痛めてないわね」

 それもそうだ。

「北側の封域が緩んだって説。古い遺構のどこかで術式が崩れたって説。あとは、もっと大きな流れの一部だって言う人もいる」
「大きな流れ?」
「北方全体が少しずつおかしいのよ。獣だけじゃない。土地の魔力の癖も、昔の記録と合わなくなってる」

 その言葉に、セレネは無意識に地図の北側を見た。

 ヴァレンハイトだった頃にも、北は時折荒れる土地だった。だが、こうして“小さな拠点が二年も圧を受け続ける”ほどではなかったはずだ。

「ローデルだけで抱えるには重い話だな」
「抱えたくて抱えてるわけじゃないわ。でも、大きいところは動きが遅い。王都は遠いし、地方の組織も全部が全部すぐ助けてくれるほど優しくない」

 地方の組織。

 セレネはその言葉に、昨夜掲示板で見たヴァレンハイトの名を思い出した。古い討伐記録、移された王国文書。あの名前は今の世界では、もう現在形ではない。

「……外からの援助は?」
「来ることは来る。でも足りない。物資も人も、ぎりぎり」

 ミレアは帳面を閉じた。

「だから、率直に言うわ。あなたが本当に危険人物じゃないなら、少し手を貸してほしい」
「情報と引き換えか」
「それが一番話が早いでしょう?」

 たしかに。

 セレネにとっても都合がいい。どうせ今は、いきなり遠くへ動くより、この時代の空気を知るほうが先だ。ローデルは小さいが、そのぶん情報の密度は悪くない。山の異変、外から来る行商、北方の噂――しばらく足を置くには悪くない場所かもしれない。

「何をすればいい」
「まずは軽い見回りや採取護衛から。いきなり全部任せる気はないわ」
「信用がないからか」
「信用があっても最初はそうする」

 ミレアの答えは実にまともだった。

「カイルが朝のうちに出る予定だから、半日だけついてもらえると助かる。断ってもいいけど」
「断る理由はない」
「助かる」

 そこでようやく、ミレアはほんの少しだけ肩の力を抜いた。

「ひとまず、食事を取って。話はそれから」
「ありがたい」
「あまりそういうふうに見えないけど、昨日からまともに食べてないでしょ」
「……分かるのか」
「顔色と声」

 言われてみれば、空腹は確かにあった。目覚めてからずっと、状況確認と戦闘と会話で後回しになっていたらしい。

 詰所を出ると、広場の一角から湯気の立つ匂いが漂ってきた。野菜を煮た汁に干し肉を落としたような、素朴だが強い匂いだ。小さな木椀を受け取ってひと口飲むと、想像以上に温かさが身体へ沁みた。

「生き返る顔してるぞ」

 横から聞こえた声に目を向けると、カイルがにやにやしながら立っていた。

「そう見えるか」
「見える。やっぱ昨日、遺構で寝てたっての本当なんだな」
「だからそう言ってる」
「寝起きで《白筋喰い》倒すやつの“そう言ってる”は信用しづらいんだよなあ」

 文句を言いながらも、少年の警戒は昨日より明らかに薄い。

「で、ミレアには何て言われた?」
「しばらく手伝え、だ」
「うわ。じゃあ今日は俺と一緒だな」
「案内役か」
「半分は見張り役」
「正直で結構」

 カイルは椀を片手に笑った。

「でも、助かるのはほんとだよ。人足りてないし」

 その言葉には、少年らしい軽さの奥に本音があった。ローデルは本当に余裕がないのだろう。昨夜広場で見た張り詰めた空気は、決して気のせいではなかった。

 セレネは湯気の向こうに揺れる小さな拠点の朝を見渡した。

 ここは仮の居場所にすぎない。
 長く留まる場所でも、帰る場所でもない。

 けれど今は、この小さな拠点が、セレネと“今の世界”を繋ぐ最初の足場だ。

「……しばらく世話になる」
「お、ちゃんとそういうこと言うんだな」
「言うべき時には言う」
「へえ」

 感心したのか、呆れたのか、カイルは微妙な顔をした。

 その反応が少しだけ可笑しくて、セレネは椀を持ったまま小さく息をついた。

 まずは今を知る。

 ヴァレンハイトがいなくなった後の時間を。
 この世界が抱えた歪みを。
 そして、その中で自分が何者として立つのかを。

 朝の光の中、銀白の髪が風に揺れる。

 セレネは小さな拠点ローデルで、ようやく“次に進むための場所”を手に入れた。


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