第3話 過去の名と、今の居場所

 カイルの案内で遺構を離れるころには、夜はすっかり深まっていた。

 山道は細く、月明かりが届くところと届かないところの差が激しい。踏み固められてはいるが整備されているとは言いがたく、岩肌を縫うようにして続く道は、慣れた者でなければ足を取られそうだった。

 だが、前を行く少年はためらわない。

「足元、気をつけろよ。そこ、崩れやすいから」
「そう見えるな」

 短く返しながら、彼女は周囲を見ていた。

 木々の密度、風の流れ、道の使われ方。遺構の中で感じた違和感は、外へ出ても消えなかった。山そのものは見覚えのある地形に近い。けれど生えている草木の種類が少し違う。月光の下でも分かるほど葉の色味が変わっているものもあれば、かつてはこの辺りに生えなかったはずの低木もある。

 長い時間が過ぎれば、景色は変わる。

 頭では分かっていた。
 実際に見ると、思ったより静かに堪える。

「……なあ」

 前を歩いていたカイルが、不意に振り返った。

「おまえ、本当にこの辺の人間じゃないのか?」
「そう見えるか?」
「見えるっていうか……なんか変だろ」

 失礼な言い分だが、否定もしづらい。

「まず服が妙に綺麗だし、言葉も変に固いし、そのわりに山の危ない場所はすぐ分かるし。あと、あの《白筋喰い》をひとりで倒しといて平然としてるのも意味が分からない」
「感想が率直すぎるな」
「隠す気がないだけだよ」

 言いながら、少年は少しだけ口元を緩めた。最初の警戒はまだ消えていないが、完全に敵だとも思っていないらしい。彼なりに、目の前の銀髪の少女を“変なやつだが危険ではない”分類へ押し込みつつあるのだろう。

 ありがたい話ではある。

 いまの彼女には、余計な敵を増やす理由がない。

「おまえさ、その……セレネ、だっけ」
「ああ」
「本当にどこから来たんだ?」

 問われて、彼女は少しだけ考えた。

 どこから来たのか。

 正直に言えば、“八年か十年か、それくらい前の時代から”になるのだろうが、そんなことを言って信じられるとも思えない。何より、自分自身まだ確証を持てていない。

「遠いところからだ」
「雑だなあ……」
「今わかっている範囲では、それが一番正確だ」
「もっともらしい顔でごまかすなよ」

 ぼやく声に、彼女はほんの少しだけ口元を和らげた。

 こういう応酬は嫌いではなかった。ヴァレンハイトだった頃は、どうしても周囲が構えた。王国の者は警戒し、敵対者は怯え、味方ですら距離を測るように接してきた。

 今の姿では、少なくとも最初からそうはならない。

 そのことに安堵するべきか、複雑に思うべきかはまだ分からなかった。

 やがて木々が開け、前方に灯りが見えた。

 山肌を削って作られた小さな集落だった。柵と呼ぶには頼りない木組みの囲いの中に、十数棟ほどの建物が固まっている。中央には広場があり、その脇に共同井戸と焚き火台、少し離れた場所に獣避けの見張り台が立っていた。

 村というより、小さな前哨拠点に近い。

「着いた。ここがローデル」
「……聞いたことのない名だな」
「そりゃ、でかい街じゃないしな。知ってるほうが珍しいだろ」

 それもそうか、と頷きかけて、彼女は引っかかりを覚えた。

 聞いたことがない。
 それだけなら小さな新興集落で済む。だが、立地を考えれば、ここには昔別の施設か監視所があったはずだ。地名ごと変わっているのだとしたら、やはり時間が流れている。

 門番代わりに立っていた年配の男が、カイルの姿を認めて肩をいからせた。

「遅かったな、カイル! またひとりで遺構の方へ行ったのか!」
「ひとりじゃない! っていうか、こいつが《白筋喰い》倒して――」
「何?」
「いや、だからっ」

 説明しかけたカイルの言葉を、男の視線が遮った。

 じろりとこちらを見てくる。
 銀白の髪。見慣れない耳。場違いなほど整った装い。山中の小拠点にふらりと現れるには、たしかに怪しすぎる見た目だ。

「……旅の術師か?」
「そういうことにしておこう」

 彼女がそう答えると、男は眉をひそめた。

「しておこう、とは曖昧な言い方だな」
「正確に説明すると長くなる」
「短く説明しろ」
「山の遺構で目覚めて、今の状況を把握していない」
「わけが分からん」

 もっともだ。

 カイルが横で「だから言っただろ」と言いたげな顔をしている。腹立たしいが、否定できない。

 男はしばらく考え込むように腕を組んでいたが、やがて大きく息を吐いた。

「……今すぐ追い出して山で死なれても寝覚めが悪い。中へ入れ。ただし妙な真似はするなよ」
「助かる」
「礼を言うなら余計な騒ぎを起こすな」

 そのまま集落の中へ通される。

 中は思ったより活気があった。深夜に近い時間だというのに、広場のあちこちにまだ人がいる。武器の手入れをしている者、薬草を仕分けている者、帳面を広げて何か記録している者。皆どこか張り詰めていて、のんびりした山村の空気ではない。

 変異獣の流入。遺構の近さ。物資の不足。
 いくつもの不安が、この小さな拠点に圧をかけているのが見て取れた。

「最近、いつもこんな感じなのか」
「最近っていうか、ここ二年くらいずっとだな」

 カイルが答える。

「二年?」
「北のほうから変なのが流れてくるようになって、遺構の周りもおかしくなって……って、あれ、ほんとに何も知らないのか?」
「だからそう言ってる」
「いや、そこまで何も知らないやつ初めて見たけど……」

 彼女は広場を見渡した。

 建物の造りも、人の装備も、やはり知っているものとは少し違っていた。革鎧の継ぎ方、護符の下げ方、見張り台に取り付けられた魔導灯の形式。どれも昔の系譜を引いてはいるが、年月の分だけ変化している。

 決定的だったのは、広場の端に立てかけられた古びた掲示板だった。

 依頼書らしき羊皮紙や、周辺地図の写しに混じって、一枚だけやけに古い紙が挟まれている。保存状態は悪い。文字も薄れている。だが、その中央に記された名前を見た瞬間、彼女は足を止めた。

 ――ヴァレンハイト。

 その名前を見た瞬間、胸の奥がひどく静かになった。

「……どうした?」

 カイルの声で我に返った。

「いや」

 彼女は掲示板へ近づいた。紙は風化しかけていたが、辛うじて読める。内容は討伐記録の写しらしい。周辺一帯を荒らしていた大型魔獣の掃討。その功績者として、王国より記録を移したもの、とある。

 ヴァレンハイト。
 その名が、そこにあった。

 今の自分とは何の関係もない、過去の英雄のように。

「古い紙だな、それ」

 カイルが横から覗き込む。

「知ってるのか?」
「いや、名前くらいは。ほら、たまにいるだろ。昔の化け物じみたやつ」
「……昔の化け物じみたやつ」
「言い方悪いか? でもそんな感じだぞ。じいさん連中は英雄って言うし、酒場じゃ災厄みたいに語るやつもいるし。正直、時代が違う昔話って感じだけど」

 時代が違う昔話。

 思わず、胸の奥がひどく静かになった。

 そうか、と彼女は思う。
 やはり、自分は本当に“あちら側”へ置いていかれたのだ。

 消えたのが昨日や一昨年なら、こういう言われ方はしない。昔話。化け物。英雄。災厄。名前だけが独り歩きし、実像よりも伝説めいた殻だけが残る呼ばれ方だ。

「……評判はあまり良くないようだな」
「いや、悪いっていうか、でかすぎて実感ないんだよ。王国に仕えたとか、仕えなかったとか、一国の軍勢を一人でどうこうしたとか、そんな話ばっかりで。ほんとかどうかも分かんないし」
「そうか」
「おまえ、興味あるのか?」
「少しな」

 嘘ではなかった。
 ただし、その“少し”の重さはカイルには分からないだろう。

 そのとき、背後から落ち着いた女の声がした。

「カイル。また勝手な拾い物をしたの」

 振り返る。

 そこにいたのは、三十前後に見える女性だった。簡素だが質のよい濃紺の外套を羽織り、手には分厚い帳面を抱えている。戦士というより管理役に近い気配だが、立ち姿に隙はない。

「拾い物じゃないって。道で倒れてたわけじゃなくて、遺構で――」
「そこから先はあとで聞くわ」

 彼女はカイルの言葉を軽く流し、それから銀髪の少女へ視線を向けた。

 観察する目だ。
 ただの余所者としてではなく、何かを測るような視線。

「私はミレア。この拠点で帳簿と人の割り振りを見ているの。あなたは?」
「……セレネ」
「姓は?」
「今はない」
「面倒な答え方ね」

 返し方が、少しだけフィリーネに似ていた。

 そのことに自分で驚いて、彼女は内心だけで首を振る。何でもかんでも重ねて見るのは良くない。まだこの世界に来たばかりなのだ。落ち着け、と自分へ言い聞かせる。

「カイルの話だと、遺構の近くで《白筋喰い》を倒したそうだけど」
「倒した」
「ひとりで?」
「そうなる」
「またその答え方」

 ミレアはため息をついたものの、即座に否定はしなかった。カイルの慌てぶりと、遺構から戻ってきたタイミングを見れば、完全な嘘とも思えないのだろう。

「……寝床は空いてる部屋をひとつ使って。詳しい話は明日。今夜はもう遅いし、こっちも人手が足りない」
「助かる」
「その代わり、朝には何者かきちんと説明してもらうから」
「できる範囲で」
「逃げ道を残すのが上手いのね」

 それは褒め言葉だろうか。

 ミレアに案内され、広場の端にある小さな石造りの建物へ向かう。途中、彼女はさりげなく周囲を観察し続けた。見張りの数。武器の質。人々の疲労。供給物資の量。小拠点としては限界が近い。

 変異獣の流入が本当に二年続いているなら、このままでは持たないだろう。

「ここよ」

 通された部屋は狭かったが、清潔だった。寝台と小机、壁際の棚、窓がひとつ。旅人用の仮宿としては十分だ。

 ミレアが扉の前で振り返る。

「ひとつだけ忠告。ここでは、強い人間ほど警戒されるわ」
「覚えておく」
「ならいいわ。おやすみ、セレネ」

 扉が閉まる。

 ようやくひとりになって、彼女は小さく息を吐いた。

 思った以上に、疲れている。

 目覚めてからまだ半日も経っていないはずなのに、身体の違和感も、戦闘も、知らない世界とのやり取りも、どれも神経を削っていたらしい。

 寝台に腰を下ろし、しばらく黙って窓の外を見た。

 外ではまだ、広場の火が小さく揺れている。知らない人々が、知らない時間の中で生きている。自分のいない年月を、誰もが当たり前に過ごしてきた。

 そして、その世界ではヴァレンハイトという名は、もうひとり歩きする過去だ。

 彼女はゆっくり目を閉じた。

 今すぐ王都へ向かうべきか。
 ヴァレンハイトの名を追うべきか。
 エルデシアの契約について探るべきか。

 どれも間違いではない。
 だが、焦って動けば足を踏み外す。今の彼女には、まだ分からないことが多すぎた。

「……まずは、今を知る」

 それが一番現実的だ。

 この時代が何を抱えているのか。
 人々が何に怯え、何に縋っているのか。
 ヴァレンハイトの消えたあと、世界がどう変わったのか。

 それを知らなければ、自分が戻ってきた意味すら見誤る。

 窓の向こうで、風がひとつ木々を揺らした。

 彼女は寝台へ身を横たえ、銀白の髪を枕へ広げる。眠気はすぐには来なかった。けれど、静かに目を閉じていると、胸の奥の深いところで、まだ馴染みきらない新しい力がかすかに脈打つのが分かった。

 エルデシア。

 呼びかけても返事はない。

 だが、沈黙もまた答えのひとつなのかもしれない。

 彼女はもう一度だけ、今日聞いた自分の名を心の中でなぞった。

 セレネ。

 まだ借り物のようで、けれど不思議と遠くはない名前。

 明日になれば、きっとまた知らないものが増える。
 それでも今は、それでいいと思えた。

 外の火が揺れ、部屋の壁に淡い影を落とす。

 過去の名を背負ったまま、セレネは静かに、今の世界の最初の夜を迎えた。


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