第2話 知らない身体と、知っている戦い

 扉の向こうに出た瞬間、空気が変わった。

 ひやりとした夜気が頬を撫でる。眠っていた場所の中は静かすぎたせいか、風の匂いがやけに濃く感じられた。湿った土、古い石、遠くで揺れる草木――知っている世界のはずなのに、どこかだけ少し違う。

 彼女は立ち止まり、ゆっくり息を吸った。

 ひとまず外へは出られた。
 問題は、この先だ。

「……まず、確認」

 自分に言い聞かせるように呟く。まだこの声には慣れない。耳に届くたび、誰か別人が近くで喋っているような妙な気分になる。

 扉の外は、古い遺構の回廊のようだった。月光を受けた石壁が白く浮かび、所々に崩れた柱や裂けた床が見える。奥へ続く通路は細く、人気はない。少なくとも、今すぐ誰かと鉢合わせる心配はなさそうだった。

 それなら都合がいい。

 彼女は壁際へ寄り、改めて自分の身体を確かめた。

 やはり、小さい。

 1話の最後に鏡面で見た姿は夢でも見間違いでもなかったらしい。視線の高さが、まず違う。ヴァレンハイトだった頃なら自然に見下ろしていた壁の傷や柱の欠けが、今はほとんど目の前にある。腕を持ち上げれば細い袖が揺れ、指先は白く長いが、男のものとは明らかに違っていた。

 軽いのに、頼りないわけではない。
 ただ、自分の知っている身体ではない。

 肩の位置も、腰の感覚も、重心も、どれも微妙に噛み合わなかった。歩幅をひとつ取るだけで、以前なら無意識で済んだ調整が必要になる。おまけに銀白の髪は長く、少し首を傾けるだけで肩先を流れて視界に入る。

「面倒だな……」

 思わず漏れる。

 身体を変えられた経験など、当然あるわけがない。しかもこれは、単に姿が違うというだけではなかった。筋肉のつき方も、力の入り方も、呼吸の深さも違う。剣を振ればどうなるか、走ればどうなるか、まだ何ひとつ予測が立たない。

 おまけに耳だ。

 自分の耳をそっと触ってみる。やはり先が少し長い。見慣れないどころの話ではないが、それ以上に困るのは、聞こえる音の広さだった。風が抜ける音、衣擦れ、壁際を這う小さな虫の気配まで妙にはっきり拾ってしまう。

 静かな場所ほど、かえって落ち着かない。

「これで平然としていろというほうが無茶だろう」

 誰に向けるでもなく文句を言ってみたが、返事はない。胸の奥にいる気配も、今はだんまりを決め込んでいるらしい。

 エルデシア。

 思い出しただけで、あの白い空間の静けさが蘇る。

 あれは味方なのか。導き手なのか。それともただ条件に従って自分を書き換えただけの存在なのか。
 今のところ分かっているのは、ずいぶん説明不足で、妙に肝心なことだけ黙る相手だというくらいだった。

「……使えるかどうかだけでも、はっきりしてほしいんだけどな」

 そう言って、彼女は胸元に意識を沈めた。

 確かにある。
 ヴァレンハイトだった頃にはなかった層が、内側に折り重なっている。新しい術理の核。権能の雛形。呼び方はどうでもよかったが、とにかく、以前とは違う何かが身体の中心に組み込まれているのが分かる。

 問題は、それがまだ自分のものになっていないことだ。

 恐る恐る一番表層に近いものへ触れる。冷たい水面を指先でなぞるような感覚。少し力を込めると、術式らしき輪郭がわずかに浮かび上がった。

 いけるか。

 そう思った次の瞬間、それは崩れた。

 淡い燐光が指先に散って、霧みたいに消える。

「っ、やっぱりか」

 ひどくやりにくい。

 もう一度試す。今度は少し手順を変え、流れを整えながら起動のきっかけを探る。……駄目だ。途中までは通るのに、その先で滑る。術路が繋がらない。いや、繋がってはいるのだろう。ただ、噛み合っていない。

 まるで自分の身体の中に、まだ自分の鍵では開かない扉がいくつも埋め込まれているみたいだった。

 彼女は諦めて手を下ろした。

「使えないわけじゃない。使いこなせてない、か」

 それはそれで面倒だ。
 いっそ完全に使えないなら切り捨てて考えられるのに、中途半端に反応だけするぶん始末が悪い。

 とはいえ、嘆いても仕方がない。

 新しい力が不安定なら、頼るべきは旧来の技術だ。身体の感覚に違いはあっても、思考の芯まで奪われたわけではない。戦い方を忘れたわけでもない。

 そこまで確認して、ようやく少し落ち着いた。

「……よし」

 短く息を吐く。

 今の自分に必要なのは、正体不明の力と格闘することではなく、状況を知ることだ。ここがどこなのか。どれほど時が流れたのか。外の世界がどう変わったのか。

 そのためにも、まずは遺構の外へ出る。

 彼女は通路を歩き出した。

 月光の差し込む回廊は、ところどころ崩落していた。床に積もった砂埃は薄い場所と厚い場所があり、人の出入りがまったくないわけではなさそうだ。だが整備されている気配はない。古い封域か、今では忘れられた施設か。

 歩いているうちに、だんだん身体にも慣れてきた。といっても、完全にはほど遠い。曲がり角を曲がるときの遠心感覚ひとつ取っても、ヴァレンハイトの時のままではいられない。重心が違う。無意識に大股で踏み込もうとして、思ったより前に出てしまう。

「……本当に、面倒だな」

 二度目の文句が漏れたところで、ふと足を止めた。

 気配。

 遠い。だが確かにいる。

 通路の先、崩れた壁の向こう側から、何かが石を擦る音がする。重くはない。数も一体か、せいぜい二体。動きは鈍いが、魔力の質が少しおかしい。

 彼女は音を立てないように身を低くし、崩れた壁際へ寄った。

 そっと覗く。

 そこは半ば天井の落ちた小広間だった。月明かりが穴の空いた上部から差し込み、砕けた石材の影をいくつも作っている。その真ん中を、獣に似た何かがうろついていた。

 四足。
 灰色の皮膚。
 狼に近い体躯。

 だが、知っている種類とは違う。

 皮膚の下に薄く青い筋が走り、目は白く濁っている。爪が妙に長く、足運びは不安定なのに、首だけがやけに素早く動いた。腐食と変異が半端に混ざったような、不快な違和感がある。

「……変異種か?」

 昔にも似た例がなかったわけではない。だが、この感じは少し妙だった。瘴気にやられた個体とも違う。人工的な改造ほど整ってもいない。環境変化に適応した結果の歪み、とでも言うべきか。

 やはり、時間が経っているのかもしれない。

 そのとき、獣がぴたりと動きを止めた。

 白い目が、壁のこちらを向く。

 気づかれた。

「ちっ」

 飛び出してくる。

 速い。予想より速かった。ヴァレンハイトだった頃の感覚で距離を見誤っていたらしい。彼女は咄嗟に横へ飛ぶ。小柄な身体は驚くほど軽く、思った以上に大きく跳べたが、そのぶん着地が少し流れた。

 危ない。

 けれど悪くない。

 獣が石壁に爪を食い込ませ、反転してもう一度飛びかかる。彼女は崩れた柱の陰へ滑り込み、その勢いのまま床の石片を一枚蹴り上げた。

 石片が獣の視界を遮る。

 一瞬だけ動きが鈍る。

 その隙に懐へ入った。

 武器はない。なら素手で十分だ。

 首筋の付け根。変異していても骨格の基本は同じだ。彼女は細い指を刃のように揃え、正確に急所へ打ち込んだ。獣が呻き、体勢を崩す。そこへ足払いを入れて横転させ、落ちた石材の角へ頭を叩きつける。

 一拍遅れて、動きが止まった。

 広間に静けさが戻る。

「……よし」

 思ったより、動けた。

 いや、正確には違う。やはり感覚はずれる。だが軽いぶん、小回りは利く。力任せに押し切るのではなく、崩して急所を取る戦い方なら、この身体でも十分やれる。

 それを確かめられただけでも大きい。

 彼女は倒れた獣へ近づき、しゃがみ込んだ。毛並みを確かめる。やはり狼系統だが、体表の青い筋は見覚えがない。魔力循環の変質か、それとも今の時代特有の異常か。

 知識だけでは断定できない。

 なら、もっと情報がいる。

 そう思って立ち上がろうとしたとき、もうひとつ気配を感じた。

 反射的に振り返る。

 広間の入口近く、崩れた壁の影に、小さな人影がいた。

 十代半ばほどに見える少年だった。簡素な革鎧に短槍を背負い、目を見開いたままこちらを見ている。採取か、見回りか、あるいはこの遺構に何か用があったのだろう。物音を聞いて来たらしい。

「お、おまえ……」

 少年の視線が、倒れた獣と彼女を行き来する。

「ひとりでやったのか?」

 その問いに、彼女は一瞬だけ答えに迷った。

 否定しても仕方がない。周囲に他の人影はないし、見られていたなら誤魔化しようもない。

「まあ、そうなるな」

 自分の口からそんな声が出ることにまだ慣れないまま答えると、少年はますます呆気に取られた顔をした。

「嘘だろ……《白筋喰い》だぞ、それ」

 聞き慣れない呼び名だった。

 だが、今の反応だけで十分だ。

 少なくともこの獣は、今の時代では名の付く脅威として認識されている。そして、いま自分がしたことは、この少年にとってかなり予想外だったらしい。

 彼女は内心で小さくため息をついた。

 目立つつもりはなかったのに、どうやら最初から少し躓いたらしい。

「……その様子だと、話を聞かせてもらえそうだな」
「は?」
「ここがどこで、今がいつ頃なのか、だ」
「い、いや、え、何だおまえ!? 山の奥の遺跡で寝てたのか!?」
「だいたいそんなところだ」
「だいたいで済む話かよ……」

 もっともだった。

 だが、彼女としても丁寧に事情を説明できる状況ではない。むしろこちらが聞きたいことのほうが多い。

 少年はしばらく警戒と困惑の混じった目でこちらを見ていたが、やがて倒れた獣へ視線を落とし、短く息を吐いた。

「……とにかく、ここにいるのは危ない。そいつ、一体いたら近くに群れがいるかもしれないし」
「群れか」
「最近、この辺りに流れてきてるんだよ。前はこんなの、もっと北にしか出なかったのに」

 やはり、環境が変わっている。

「近くに拠点があるのか」
「ある。村ってほどでかくはないけど、休むくらいはできる」
「案内してくれるか」
「はあ!? いや、おまえ、初対面……」
「嫌なら自力で探すが、その前に別の獣に会うかもしれない」
「脅してる?」
「事実を言ってるだけだ」

 少年は露骨に顔をしかめた。

 その様子が少しだけ可笑しくて、彼女はようやく、自分の中の緊張がいくらか解けているのに気づいた。目覚めてからずっと、知らないものばかりだった。身体も、声も、力も、場所も。けれど戦いだけは、少なくとも完全には裏切らなかった。

 それだけで、少し前に進める。

「……名前は?」

 少年が諦めたように聞いてくる。

 名前。

 その一言が妙に重く落ちた。

 ヴァレンハイトではない。少なくとも今、この姿で名乗るべきではない。なら何と答える。まだ決めていない。決めていたわけでもない。なのに、口を開く前、胸の奥のどこかでひとつの響きが静かに浮かんだ。

 選ぶというより、そこにあったものを拾い上げる感覚に近かった。

「……セレネだ」

 名乗った瞬間、その音がひどく自然に馴染んだ。

 ずっと遠くにあったものが、ようやく自分のところへ落ちてきたような、不思議な感覚がある。

「セレネ?」
「ああ」

 少年はまだ少し怪しんでいる顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。

「俺はカイル。ついて来い。ほんとに危ないからな」
「助かる」

 そう返しながら、セレネは広間を振り返る。

 倒れた変異獣。崩れた遺構。知らない呼び名。変わってしまった生態。
 目覚めたばかりの世界は、思っていたより静かで、思っていたより確実に遠かった。

 セレネは銀白の髪を背に流し、小さな案内人のあとを追って歩き出す。

 まずは状況確認。
 そのための手がかりは、ようやく向こうから近づいてきてくれた。

 そして同時に、ひとつだけはっきりしたことがある。

 この世界はもう、ヴァレンハイトが知っていたままの姿ではない。


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