第1話 終わる名、始まる姿

 その男を、ただの冒険者として見る者は、もうほとんどいなかった。

 王都外縁の古い迎賓棟。夜の回廊を、ヴァレンハイトは無言で歩いていた。壁際には王国直属の衛士が並び、槍を手にしたまま直立している。

 護衛ではない。

 監視だ。

「ずいぶんと歓迎されているな」

 前を見たまま言うと、半歩後ろを歩く女が静かに答えた。

「歓迎、ですか。そう見えるのでしたら、ずいぶんお優しい解釈ですね」

 フィリーネだった。

 落ち着いた声音。感情を荒げることはほとんどないが、今の一言にはわずかに棘がある。

「王国からの勧誘が三件。貴族からの接触が二件。裏で動いている者が四件。昨夜の狙撃手も含めれば、今日はなかなかの盛況ですよ、ヴァレン」
「数えていたのか」
「数えずに済むなら、そうしたかったのですが」

 ヴァレンハイトは小さく息をついた。

 王国は彼を囲いたがり、裏社会は警戒し、敵対勢力は消したがっている。強くなりすぎた個人は、やがてひとつの戦力ではなく、厄介な“現象”として扱われるようになる。

 それが今のヴァレンハイトだった。

「……面倒な話だ」
「今さらです」

 フィリーネの返答は素っ気ない。だが、気遣いのない声ではなかった。

 彼女はいつもそうだ。必要以上に前へは出ない。けれど、必要なときには必ずそこにいる。ヴァレンハイトの少し後ろが、彼女の立つ位置だった。

 回廊の先には、夜に開かれた露台がある。中央には王家が封じてきた古い祭壇。その表面を、今は淡い銀光が這っていた。

 ヴァレンハイトだけに反応したそれを前に、王国は表向き平静を装いながらも、内心では彼を手放したくないと考えているのだろう。

 だが、もう遅い。

 露台へ出ると、夜気が肌を撫でた。見上げた空には白い月。祭壇の周囲だけ、空気が妙に静かだった。

「本当に行かれるのですね」

 フィリーネが言う。

 その声音に、ヴァレンハイトはわずかに目を細めた。止めたいのだろう。彼女には、これがただの力の獲得ではないと分かっている。

「そのために来た」
「戻れる保証はありません」
「保証のある道を歩いた覚えはない」

 いつもなら、そこでフィリーネは引き下がる。だが今夜は違った。

「今回は、今までと違います」

 珍しく強い声だった。

「これ以上、あなたがあなたでなくなるものを、私は勧められません」

 ヴァレンハイトはしばらく黙り、祭壇を見つめた。

 王国に利用され、裏の者どもに狙われ、放っておけば戦局を傾ける兵器のように扱われる。このまま歩き続けても、いずれヴァレンハイトという名そのものが、彼自身を喰い潰す。

「……だからこそだ」

 小さく答え、祭壇へ踏み出す。

 銀光が一斉に広がった。

 足元の術式が開き、夜景が遠のく。石床も、月も、フィリーネの気配さえも、白い光に溶けていく。

 次に立っていたのは、どこまでも白い空間だった。

 上下も奥行きも分からない、静かな場所。そこでヴァレンハイトを待っていたのは、人の形をした何かだった。

 銀白の髪とも光の流れともつかぬ揺らぎ。中性的な顔立ち。白でも青でも緑でもない曖昧な光を纏い、見つめるだけで息を潜めたくなるような静けさがある。

「到達を確認した」

 声が直接意識へ落ちてくる。

「秘匿上位権能への接続条件、適合」
「……お前が、その先か」
「名をエルデシアと呼ぶ者もいる」

 エルデシア。

 初めて聞く名のはずなのに、不思議と馴染んだ響きだった。

「契約を提示する」
「拒否はできるのか」
「できる。ただし、お前は元の位階へ留まる」

 つまり、何も変わらないということだ。

 いや、正確には違う。状況だけが悪いまま続く。

「契約成立には器の再定義が必要」
「再定義?」
「現行個体では適合不全を起こす」
「今の俺では駄目だと」
「駄目ではない」

 エルデシアは静かに告げた。

「向かない」

 容赦のない言い方だった。
 だが、妙に納得もした。

 今の自分は、あまりに“ヴァレンハイト”でありすぎる。この名も、この姿も、この積み重ねも、すでに多くを背負いすぎている。

「再定義の結果、どうなる」
「連続性は維持される」
「曖昧だな」
「お前はお前であり続ける。ただし、同一ではいられない」

 答えとしては十分だった。

 契約を受ければ、元には戻れない。
 だが、このままでも先はない。

 ヴァレンハイトは迷わなかった。

「受ける」

 空間が静かに震えた。

 エルデシアが手を伸ばし、ヴァレンハイトの胸元へ触れる。冷たさも熱もない。あるのは、境界が書き換わる感覚だけだった。

「適合処理には眠りを伴う」
「どれほどだ」
「お前にとって意味のある問いではない」

 その返答に、ヴァレンハイトはわずかに苦笑した。

「最後にひとつだけ聞く」
「許可する」
「なぜ、俺だった」

 エルデシアは静かな目でヴァレンハイトを見た。

「お前が、終わろうとしていたからだ」

 その言葉を最後に、白い空間が砕けた。

 落ちる。

 深く、静かな闇へ。

 遠くで、誰かの声がした気がした。

 ヴァレン――

 それがフィリーネのものだったのか、ただの記憶だったのか、確かめる前に意識は沈んだ。

     ◇

 目を覚ました瞬間、真っ先に感じたのは違和感だった。

「……っ」

 身体が軽い。

 いや、軽すぎる。

 起き上がろうとして、思わず手をつく。視線の位置が低い。腕が細い。指先の感触もおかしい。

 何だ、これ。

 髪が肩からさらりと流れ落ちた。視界の端に映ったそれは、月光みたいな銀白だった。

「は……?」

 声を出して、自分で固まる。

 知らない声だ。低く落ち着いた男のものではない。澄んで、細くて、けれど妙に静かな少女の声。

 ヴァレンハイト――だった意識は、しばらくその場で止まった。

 ゆっくり周囲を見渡す。淡く光る壁面。静かな聖域めいた空間。少なくとも王都ではない。そして壁の一部が、鏡のようにこちらを映していた。

 そこにいたのは、見知らぬ少女だった。

 小柄で、華奢で、ひどく静かな顔をしている。銀白の長い髪。夜色を映した瞳。耳の先は、わずかに人より長い。

 どう見てもヴァレンハイトではない。

「……冗談だろ」

 言いながら、まったく冗談に思えないのが嫌だった。

 姿は違う。
 声も違う。
 身体の感覚も違う。

 なのに、思考の中身だけは変わっていない。

 記憶も、判断も、警戒の仕方も、全部そのままだ。ヴァレンハイトとして積み上げたものだけが、妙に冷静に残っている。

 頭の奥で、淡い声が響いた。

『適合、進行中』
「……エルデシアか」
『新規権能は未だ安定せず。強行行使は推奨しない』

 言いたいことだけ言って消えるあたり、実に親切設計とは言いがたい。

 胸の奥へ意識を向けると、確かに何かがある。新しい力の核のようなものだ。けれど、触れようとするとひどく不安定だった。

 試しにひとつ起動しようとしてみる。

 指先に淡い光が灯る。
 が、すぐに霧のように崩れた。

「使えないのかよ……」

 思わず本音が漏れた。

 いや、正確には使えないわけではない。噛み合っていないのだ。術路がまだ馴染んでいない。通るはずのものが、途中で滑って散っていく。

 つまり、未完成。

 見た目だけ変わって中身は平気、という都合のいい話ではなかったらしい。

 ヴァレンハイト――いや、もはやそう呼ぶべきではないのかもしれない彼女は、もう一度鏡面を見る。

 可憐ですらある少女が、そこにいた。

 戦場で見ただけで人が距離を取った男の面影はどこにもない。こんな姿で王都に戻れば、誰も同一人物だとは思わないだろう。

 それは都合がいい。
 同時に、どうしようもなく落ち着かない。

 だが、立ち止まっていても仕方がない。

 新しい力はまだ使えない。なら、当面は旧来の知識と技術で動くしかない。幸い、それで困るほど自分は甘くなかった。

 ――問題は、ここがどこで、どれだけ時が流れたのか、だ。

 そのとき、閉ざされていた扉が音もなく開いた。向こうから冷たい風が入り込み、外の気配を運んでくる。

 行け、ということか。

 まるで全部お見通しだと言わんばかりで、少し腹が立つ。

 彼女は細い指で喉元に触れ、小さく息をついた。

「……まずは、状況確認だな」

 少女の声でそう呟くのが、まだ妙に馴染まない。

 自分が何になったのか。
 世界がどう変わったのか。
 ヴァレンハイトという名が、今どうなっているのか。

 知らなければならないことはいくらでもある。

 銀白の髪を揺らし、見知らぬ姿のまま、彼女は扉の向こうへ歩き出した。

 ヴァレンハイトという名は、そこでひとつ終わる。

 そして今、まだ名も定まらぬ新しい誰かが、静かに世界へ戻っていく。


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