第24話 小さな慰労の日
北の異変から、さらに数日が過ぎた。
ローデルの北側は、まだ完全に元通りとは言えない。
監視道へ向かう札は残されたままで、見張りの数も以前より多い。北柵には新しい木材が混じり、修復された箇所だけ色が少し明るく見える。
だが、白靄はもう見えなかった。
朝の空は薄く晴れている。
山の稜線には雲が流れ、風は冷たすぎず、広場には洗った布が何枚も干されていた。
ローデルは、少しずつ息を整え始めていた。
その日の昼過ぎ、広場では大きな鍋が火にかけられていた。
祭りというほど大げさなものではない。
飾りを出す余裕もなければ、音楽を鳴らす者もいない。
ただ、北の異変をひとまず乗り越えた者たちが、温かいものを食べ、少しだけ肩の力を抜くための集まりだった。
鍋の中では、根菜と山菜、少しの保存肉が煮込まれている。
近くの台には、焼いたパンと干した果実が並べられていた。誰かが持ち寄った小さな蜂蜜壺も置かれている。
セレネは、その様子を広場の端から見ていた。
賑やかだ。
大騒ぎというほどではない。
けれど、いつものローデルより人の声が多い。子どもたちが鍋の周りを覗き込み、年寄りたちは火の近くで腰を下ろし、見張りを終えた者たちが眠そうな顔で器を受け取っている。
戦いのあとに、こういう場を作る。
それが少し、不思議だった。
セレネの記憶の奥にある戦場では、後始末のあとに来るのは報告と再配置だった気がする。休息はあった。食事もあった。だが、そこに笑い声が混ざっていたかどうかは思い出せない。
少なくとも、自分がこうして端から眺めていた記憶はない。
「また端にいる」
声に振り向くと、カイルが器を二つ持って立っていた。
片方には湯気の立つ煮込み。
もう片方には、少し小さく切ったパンが乗っている。
「主役の一人が端にいるなよ」
「私は主役ではない」
「言うと思った」
「なら言うな」
「言いたかったんだよ」
カイルは片方の器を差し出した。
「ほら」
「私のか」
「そう。ミレアさんに頼まれた」
「ミレアか」
「俺が気を利かせたことにしてもよかったんだけどな」
「嘘はよくない」
「真面目か」
カイルは自分の器を持ったまま、セレネの横に立つ。
「座らないのか」
「座ったら、たぶん立つのが面倒になる」
「疲れているのか」
「今日は朝から運んだり並べたりしてたからな。あ、でも今回は木材の向き間違えてないぞ」
「成長したな」
「お、褒めた」
「少しだけ」
「少しでもいいや」
カイルは少し嬉しそうに笑った。
数日前の稽古以来、彼は時々一人で足運びを確認している。
派手な動きではない。半歩出て、戻る。横へ空ける。味方の通り道を作る。
本人は地味だと文句を言っているが、やめてはいない。
それは良いことだと、セレネは思っていた。
「味は?」
カイルが訊いた。
「まだ食べていない」
「じゃあ食べろよ」
「熱い」
「子どもか」
「熱いものは熱い」
「薬湯よりましだろ」
「それはそうだ」
セレネは器を持ち、少しだけ煮込みを口に運んだ。
温かい。
味は濃すぎず、肉は硬いが、根菜は柔らかい。
少しだけ香草の匂いがする。ローデルでよく使われているものだ。
「悪くない」
「それ、だいぶ褒めてるよな」
「たぶんな」
「便利なたぶん」
カイルは笑った。
◇
広場の中央では、ミレアが忙しそうに人をさばいていた。
「子どもたちは先に受け取って。見張り明けの人は奥の台から。鍋の近くで走らない。熱いから」
言いながら、自分はほとんど食べていない。
片手には配膳用の木杓子。
もう片手には、誰がまだ受け取っていないかを確認するための小さな帳面。
セレネが見ていると、ミレアと目が合った。
ミレアはすぐにこちらへ歩いてくる。
「食べてる?」
「食べている」
「ちゃんと?」
「何をもって、ちゃんとと言う」
「器を空にすること」
「厳しいな」
「今日は薬湯じゃないから文句は受け付けません」
ミレアはセレネの器を確認し、半分以上残っているのを見て少し目を細めた。
「残さない」
「多い」
「多くない」
「カイルの器より多い」
「あなたがまた食べずに済ませようとするから、少し多めにしたの」
「策略か」
「生活管理よ」
カイルが横で吹き出した。
「セレネ、完全に管理されてるな」
「お前も後で野菜を残すなと言われる」
「えっ、何で分かる」
「器の端に寄せている」
「見てたのかよ」
「見えていた」
ミレアがカイルの器を見る。
「カイル」
「いや、これは最後に食べようと思って」
「今食べなさい」
「はい」
カイルは素直に野菜を口に入れた。
その様子を見て、セレネは少しだけ器の中身を見下ろす。
管理される。
注意される。
食べろと言われる。
戦場では余計なことだ。
だが、ここではそうではない。
誰かが誰かの食事量を気にする。
怪我をしていないか、疲れていないか、野菜を残していないかを見る。
それもまた、ローデルの日常なのだろう。
「セレネ」
ミレアが言った。
「今日は、感謝されておきなさい」
「何に」
「北の異変のこと。柵のこと。カイルの稽古のこと。木材分けのこと」
「最後は小さい」
「そういう小さいことが、ここでは大事なの」
ミレアの声は穏やかだった。
「あなたは主役じゃないって言うでしょうけど、少なくとも今日は、みんなが少しだけあなたに礼を言いたい日なのよ」
「礼を言われても、返す言葉がない」
「それなら、受け取っておけばいいわ」
「受け取る」
「そう。食事と同じ」
セレネは器を持ち直した。
「難しいな」
「慣れなさい」
「努力する」
「よろしい」
ミレアは満足そうに頷き、また鍋の方へ戻っていった。
◇
フィリーネは広場の端で、少し困っていた。
理由は、子どもに囲まれていたからだ。
「ねえ、記録保全局って何するところ?」
「白い靄を捕まえるところ?」
「偉い人なの?」
「アシュレイさんより偉い?」
質問が多い。
フィリーネは器を膝に置いたまま、ひとつずつ聞いていた。
その表情は落ち着いているが、普段より少しだけ反応が遅い。
アシュレイは少し離れた場所で記録板を持っていたが、ミレアに「今日は記録じゃなくて食べる日」と言われ、筆をしまわされている。
つまり、フィリーネを助ける者はいない。
「記録保全局は」
フィリーネはゆっくり答えた。
「忘れてしまうと困るものを、忘れないようにする場所です」
子どもたちは顔を見合わせた。
「忘れ物を預かるところ?」
「少し違います」
「じゃあ、昔の話を覚えてるところ?」
「それは近いですね」
「白い靄も?」
「はい。白い靄のことも、何が起きたのかを残します」
「セレネのことも?」
「……必要なことは、残します」
フィリーネは一瞬だけ言葉を選んだ。
「でも、人を困らせるような残し方はしないようにします」
「ふーん」
「むずかしい」
「でも、忘れないようにするのは大事かも」
子どもたちの一人がそう言った。
フィリーネは静かに微笑んだ。
「ええ。大事です」
そのやり取りを、セレネは少し離れた場所から見ていた。
忘れてしまうと困るものを、忘れないようにする場所。
その言葉が胸の奥に残る。
自分の中にも、忘れてしまうと困るものがあるのだろうか。
あるのだとしたら、それはどこにあるのか。
なぜ思い出せないのか。
思い出すべきなのか。
それとも、まだ触れない方がいいものなのか。
答えはない。
だが、以前よりも問いの形ははっきりしてきていた。
「気になるのか」
隣でカイルが訊いた。
「何が」
「フィリーネさんの話」
「少し」
「聞きに行けばいいじゃん」
「今は子どもに囲まれている」
「助ける?」
「必要なさそうだ」
「いや、あれは困ってる顔だぞ」
「そうなのか」
「セレネ、人の戦う顔は分かるのに、困ってる顔は分からないのか」
「困っていても耐えている顔に見える」
「それが困ってるってことだと思う」
カイルは笑いながら立ち上がり、子どもたちの方へ歩いていった。
「おい、フィリーネさんを質問攻めにするなよ。鍋の肉、まだ残ってるぞ」
「肉!」
「どこ?」
「早く行かないとなくなるぞ」
子どもたちが一斉に鍋の方へ走りかける。
「走らない!」
ミレアの声が飛んだ。
子どもたちは慌てて歩く。
カイルは得意げに戻ってきた。
「助けたぞ」
「肉で釣っただけだ」
「効果があればいいんだよ」
フィリーネは少し離れた場所から、カイルへ小さく頭を下げた。
カイルは照れたように手を振る。
その様子を見て、セレネは思った。
フィリーネは、ただ遠くから見るだけの人間ではない。
ここにいる者たちと、少しずつ言葉を交わしている。
それはたぶん、フィリーネ自身にとっても簡単なことではないのだろう。
それでも彼女は、ローデルの中へ入ろうとしている。
踏み込みすぎず。
離れすぎず。
やはり、変な女だ。
◇
日が傾き始める頃、アシュレイは広場の隅で器を持ったまま立っていた。
食べてはいる。
ただし、視線は時々、腰に下げた記録板へ向かう。
ミレアがそれを見つけた。
「アシュレイ」
「はい」
「今日は記録じゃなくて、食べる日と言いました」
「食べています」
「記録板を見ない」
「見ているだけです」
「それを見ていると言うのよ」
アシュレイは少しだけ困った顔をした。
「この場も、後で記録した方がいいと思いまして」
「慰労の食事会を?」
「はい。北側異常後の拠点心理回復過程として」
「言い方が硬い」
「では、ローデル住民の士気回復状況」
「まだ硬い」
「……小さな慰労の日」
「それでいいわ」
ミレアは呆れたように笑った。
アシュレイは少し考え、真面目に頷く。
「では、後でその表題にします」
「本当に記録するのね」
「忘れてはいけないことかもしれませんので」
「まあ、それは……そうかもしれないけど」
ミレアは少しだけ言葉を止めた。
北の異変の記録だけが必要なわけではない。
そのあと、人々がどう立ち直ろうとしたか。
誰が何を食べ、誰が笑い、誰が泣かなかったか。
それも、もしかすると残すべきものなのかもしれない。
ミレアは小さく息を吐く。
「じゃあ、食べ終わってから」
「分かりました」
「食べ終わるまでは書かない」
「分かりました」
アシュレイは記録板から手を離した。
少しだけ名残惜しそうだった。
その様子を見て、セレネは少しだけ口元を緩めた。
◇
夕方の光が広場を橙色に染め始めた頃、セレネは少し離れた場所に移動していた。
賑やかな場が嫌いなわけではない。
ただ、長くいると少し疲れる。
広場の端、北柵の影が伸びる場所に立つと、山の稜線がよく見えた。
白靄はない。
異形の影もない。
ただ、静かな山がそこにある。
完全に安心できるわけではない。
遺構の奥にはまだ何かが残っている。
フィリーネが滞在を延ばした以上、いずれ調べることになるだろう。
ローデルの外には、まだ知らないものが多い。
だが、今この瞬間だけは、広場の火と人の声が背中にある。
「ここにいましたか」
フィリーネの声がした。
振り向くと、彼女が器を持って立っていた。
いつもより少しだけ表情が柔らかい。子どもたちから解放されたからかもしれない。
「疲れたのか」
セレネが訊いた。
「少し」
「質問攻めだった」
「ええ。よい訓練になりました」
「何の」
「分かりやすく話す訓練です」
「お前にも訓練があるのだな」
「あります。私は万能ではありませんから」
フィリーネは少し距離を空けて隣に立った。
二人で北の山を見る。
「ローデルは、不思議な場所ですね」
フィリーネが言った。
「そうか」
「ええ。傷ついたものを、すぐ役割だけで測らない」
「役割」
「戦えるか、使えるか、危険か、価値があるか。そういう見方だけでは、人は簡単に壊れます」
「お前は記録保全局の人間だろう」
「だからこそ、そう思います」
フィリーネの声は静かだった。
「記録も、人を役割で閉じ込めることがあります。英雄、災厄、戦力、危険物、証言者。どれも間違いではなくても、それだけで人を見ると、何かを失います」
「私も、そのどれかになるのか」
「なるかもしれません」
「正直だな」
「嘘をついても、あなたは気づくでしょう」
「たぶんな」
セレネは北の山を見る。
「なら、お前は私をどう見る」
「今は、ローデルで温かい煮込みを食べて、薬湯を嫌がり、カイルさんに稽古をつけ、ミレアさんに休めと言われているセレネさんとして見ています」
「長い」
「記録らしいでしょう」
「それは昨日も聞いた」
「気に入っていますので」
フィリーネはほんの少しだけ笑った。
その笑みは控えめだったが、昨日より少し自然だった。
「ローデルは、不思議な場所です」
フィリーネはもう一度言った。
「ここでは、誰もが役割を持っています。でも、役割だけで扱われるわけではない」
「それは良いことなのか」
「私は、良いことだと思います」
セレネは少し黙った。
広場の方から、カイルの声が聞こえる。
ミレアがそれを叱る声も続く。
アシュレイは何か真面目に説明しているらしく、聞いている子どもたちの反応は鈍い。
ローデルの音だ。
少し前まで、自分にとってはただの仮の拠点だった場所。
拾われ、置かれ、様子を見られている場所。
だが、今はそれだけではない。
朝の水汲み。
柵の点検。
木材の分別。
薬湯。
稽古の線。
温かい煮込み。
野菜を残してミレアに見つかるカイル。
記録板をしまいきれないアシュレイ。
子どもに囲まれて少し困るフィリーネ。
それらは、戦場の記憶とは違う形で、セレネの中に残り始めていた。
「悪くない場所だ」
セレネは言った。
フィリーネは横を見る。
「ローデルが、ですか」
「ああ」
「そうですね」
「お前もそう思うのか」
「はい」
フィリーネは北の山から広場へ視線を移した。
「少なくとも、私も少しそう思い始めています」
「変な女だな」
「今日は何度目ですか」
「数えていない」
「では、記録できませんね」
「記録しなくていい」
「そうします」
その返答は、少しだけ冗談めいていた。
セレネは、ほんのわずかに息を吐いた。
笑ったのかどうかは、自分でも分からなかった。
◇
夜が近づく頃、広場の火は少しずつ小さくなっていった。
大きな鍋は空になり、パンの籠もほとんど残っていない。
子どもたちは眠そうに目をこすり、見張りに出る者たちは武器を手に立ち上がる。
慰労の日は終わる。
明日からまた、警戒と仕事が続く。
北側の調査もある。
フィリーネの記録も続く。
アシュレイの報告も増える。
カイルの稽古も、たぶん続くだろう。
ミレアはまたセレネに休めと言う。
何かが大きく解決したわけではない。
セレネの過去も、届かない名も、まだ霧の向こうにある。
北の遺構の奥にも、閉じたままの傷が残っている。
それでも、この数日のあいだに、変わったものは確かにあった。
セレネはまだ、自分が何者だったのかを知らない。
けれど、今どこに立っているのかは、少しだけ分かるようになっていた。
広場の灯りが、風に小さく揺れる。
その向こうで、ミレアが片づけの指示を出している。
カイルが不満そうにしながらも手伝っている。
アシュレイが空になった鍋を見て、何かを書きたそうにしている。
フィリーネが子どもから受け取った小さな木片の飾りを、少し困った顔で見つめている。
ローデルは、静かに夜を迎えようとしていた。
セレネはその光景を見て、胸の奥に残る小さな痛みを感じた。
痛みは消えていない。
けれど、今はそれだけではなかった。
知らない過去がある。
届かない名前がある。
それでも、今ここにあるものもまた、確かに自分のものになり始めている。
そう思った時、セレネはほんの少しだけ目を伏せた。
言葉にはしない。
誰にも伝えない。
ただ、広場の火の温かさを、しばらく見ていた。
北の異変のあとに訪れた、短い日常の終わり。
それは次の道へ進む前に、ローデルという場所をもう一度、静かに胸へ刻むための夜だった。