第23話 死なないための稽古
北の異変から、数日が過ぎた。
ローデルの北柵は、完全ではないにせよ仮修復を終えていた。新しく打ち込まれた杭はまだ木肌が明るく、古い柵の色とは少し違っている。そこだけが新しい傷跡のように浮いて見えたが、少なくとも見張り台から見下ろす限り、拠点の防衛線は形を取り戻している。
白靄の残滓も、目に見えるほどには薄れていた。
監視道へ向かう道にはまだ札が立てられている。北側への立ち入りは制限されたままだ。だが、広場を歩く者たちの表情からは、あの夜の張り詰めた硬さが少しずつ抜け始めていた。
朝の水汲み。
柵の点検。
薪の整理。
見張りの交代。
薬湯の苦さに顔をしかめるセレネ。
戦いのあとにも、ローデルにはいつもの仕事があり、いつもの朝があった。
その日の午前、カイルは北柵の内側で槍を持ったまま立っていた。
見張りではない。
正式な訓練でもない。
ただ、手にした槍を構えたり下ろしたりしながら、何度も同じ場所に立ち直している。
セレネは少し離れた木箱の上に腰を下ろし、その様子を見ていた。
ミレアからは今日も「無理に動かないこと」と言われている。深く息を吸った時の痛みはほとんど消えていたが、完全に何もないわけではない。
だから、今は見ているだけだった。
カイルは槍を構える。
一歩出る。
すぐに戻る。
また構える。
動きは悪くない。
ただ、前に出る時だけ、少し早い。
セレネはそれを見て、口を開いた。
「そこは出る場所じゃない」
「うわっ」
カイルが振り向く。
「見てたのか」
「見えていた」
「そういう言い方するよな、おまえ」
カイルは槍を下ろし、少し気まずそうに頭をかいた。
「何をしている」
「いや、ちょっと。構えの確認」
「一人でか」
「悪いかよ」
「悪くはない。だが、今の動きなら三度死ぬ」
「朝からひどいな!」
カイルは抗議したが、セレネは表情を変えなかった。
「一歩目で前に出すぎる。二歩目で味方の槍筋を塞ぐ。三歩目で退路がなくなる」
「……そんなに?」
「そんなに」
カイルは自分の足元を見た。
昨日まで新しく打ち直された柵の影が、地面に細く落ちている。
「あの北の異変のときさ」
カイルはぽつりと言った。
「俺、前に出なかっただろ」
「ああ」
「それは正しかったって、セレネもアシュレイさんも言った」
「正しい」
「でもさ」
カイルは槍を握り直した。
「正しかったからって、何もできなかった感じが消えるわけじゃないんだよ」
セレネは黙った。
その言葉は、軽く流すには少し重かった。
カイルは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「俺、ちゃんと持ち場を守った。それは分かってる。分かってるけど、もし次に同じことがあったら、今度もただ守るだけなのかって思うと、何か……落ち着かない」
「守ることは、ただ、ではない」
「それも分かってる。でも、もっと役に立てるようになりたいんだ」
カイルはまっすぐセレネを見た。
「稽古、つけてくれないか」
セレネはすぐには答えなかった。
カイルの目には焦りがある。
悔しさもある。
だが、無謀な前のめりだけではない。
あの夜、彼は前に出なかった。
自分の持ち場を守った。
そして今、その意味を理解した上で、次を求めている。
悪くない。
だが、放っておけば危うい。
「ミレアに聞け」
セレネは言った。
カイルの顔が分かりやすく曇った。
「そこからか」
「そこからだ」
「ミレアさん、絶対うるさいぞ」
「必要なうるささだ」
「それも分かってるけどさ」
◇
ミレアは案の定、うるさかった。
「稽古?」
詰所の前で、ミレアは腕を組んだ。
カイルは槍を持ったまま、少しだけ背筋を伸ばしている。
セレネはその横に立っていたが、すでに少し面倒そうな顔をしていた。
「そう。セレネに見てもらうだけ」
「見てもらうだけで済むと思う?」
「たぶん」
「その“たぶん”は、セレネから学ばなくていいところよ」
ミレアはため息をついた。
「セレネ。あなたの体調は」
「かなり戻った」
「かなり?」
「深く吸っても痛みはほとんどない」
「ほとんど」
「軽く動く程度なら問題ない」
「軽く、ね」
ミレアの目が細くなる。
「あなたの軽くは信用しない」
「なら、どうすればいい」
「条件をつける」
ミレアは指を一本立てた。
「まず、セレネは本気で動かない」
「分かった」
「カイルに怪我をさせない」
「分かった」
「変な戦場理論で心を折らない」
「……それは内容による」
「折らない」
「分かった」
カイルが横で笑いをこらえている。
ミレアはカイルを見る。
「あなたも。勝手に前へ出ない。痛いと思ったらすぐ止める。格好つけない」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
「返事が軽い」
「分かっております」
「急に変えると余計に信用できない」
カイルは肩を落とした。
その様子を見て、セレネは少しだけ口元を緩めた。
ミレアは最後に、広場の端へ目を向けた。
そこにはフィリーネとアシュレイがいた。
北側遺構の確認記録を整理していたらしい。二人ともこちらのやり取りに気づいている。
「フィリーネさん」
ミレアが声をかける。
「少し訓練をします。危ないと思ったら止めてください」
「私がですか」
「セレネが暴走した時の証人が多い方がいいので」
「暴走はしない」
セレネが言う。
「本人の申告は信用しません」
「ひどいな」
フィリーネは少しだけ困ったように笑った。
「分かりました。見ています」
アシュレイも記録板を閉じる。
「記録は」
ミレアが言う。
「今日は最低限にしてください」
「最低限とは」
「訓練中に逐一書かない」
「……承知しました」
少し残念そうだった。
◇
訓練は、北柵の内側にある開けた場所で始まった。
地面にはカイルが自分で線を引いた。
前に出る位置。戻る位置。味方が立つ想定の位置。
セレネはそれを見て、棒で一本線を増やした。
「ここから先へ出るな」
「近くないか?」
「近い」
「敵に届かないだろ」
「届かなくていい」
「え?」
「最初に教えるのは、倒す動きではない」
セレネは短い木棒を手に取った。
短剣ではない。訓練用の棒だ。
「死なない動きだ」
「……地味だな」
「派手な動きは、生きて戻れるようになってからだ」
「うっ」
カイルは言い返せなかった。
セレネはカイルの正面に立つ。
「構えろ」
「よし」
カイルが槍を構える。
悪くない。
少なくとも、持ち方は以前より安定している。足の開きも大きすぎない。
だが、視線がセレネに固定されすぎている。
「目が狭い」
「目?」
「私だけを見るな」
「相手を見るなってことか?」
「相手だけを見るな」
「難しいな」
「難しいからやる」
セレネは木棒を軽く上げた。
「来い」
「いいんだな」
「ああ」
カイルが踏み込む。
その瞬間、セレネは何もしなかった。
ただ半歩、横へずれただけだった。
カイルの槍は空を切る。
勢いが余り、彼の身体が前へ流れる。
セレネは木棒で軽くカイルの肩を押した。
「死んだ」
「早い!」
「一歩目で前に出すぎた」
「でも届かせようとしたら」
「届かせる必要がない時に届かせようとするな」
「むずっ」
カイルは顔をしかめながら戻る。
「もう一回」
「構えろ」
二度目。
カイルは少し踏み込みを抑えた。
だが今度は、戻る足が遅い。
セレネは木棒の先で、彼の足元を軽く払った。
カイルがよろめく。
「死んだ」
「またかよ」
「戻りが遅い」
「攻撃したあとにすぐ戻るの、難しいんだよ」
「だから、最初から戻れる分だけ出る」
「それだと弱くないか」
「死ぬより強い」
カイルは黙った。
ミレアが少し離れたところで腕を組んでいる。
その顔には心配と納得が半分ずつ浮かんでいた。
フィリーネはさらに遠くで、静かに見ていた。
◇
稽古は地味だった。
カイルが前に出る。
セレネがずれる。
カイルが崩れる。
セレネが一言だけ指摘する。
その繰り返し。
派手な打ち合いはない。
鋭い剣技もない。
目を引く術もない。
だが、見ている者ほど、その地味さの意味に気づき始めていた。
「また前に出すぎ」
「今のは出てないだろ!」
「気持ちが出ている」
「気持ちまで見るな!」
「足に出る」
「出るのかよ!」
カイルが叫ぶ。
セレネは淡々としていた。
「お前は、守る時に勝とうとしすぎる」
「勝とうとするのは悪いのか」
「悪くはない。だが、守る時の勝ちは、倒すことではない」
「じゃあ何だよ」
「通さないこと。生きて戻ること。次の一手を味方に渡すこと」
「……次の一手」
カイルは槍を握り直した。
「自分で決めようとしすぎるな」
セレネは言う。
「お前が全部倒す必要はない。お前が半歩下がれば、後ろの槍が通る。横へずれれば、弓が通る。立ち止まれば、味方が詰まる」
「俺が動くだけで、そんなに変わるのか」
「変わる」
「……そうか」
カイルは自分の立ち位置を見る。
足元に引かれた線。
その後ろに想定された味方の位置。
さらに後ろに、北柵。
戦いは自分と敵だけで決まるわけではない。
そのことが、少しずつ身体に入っていく。
「もう一回」
カイルが言った。
セレネは頷いた。
「来い」
カイルは踏み込んだ。
今度は、前に出すぎなかった。
槍の穂先はセレネには届かない。
だが、セレネが横へずれた時、カイルは追わなかった。
半歩下がる。
槍を引く。
そして、横へ一歩空けた。
もし後ろに味方がいれば、その槍が通る位置だった。
セレネは木棒を下ろした。
「今のは、生き残る動きだ」
カイルは目を瞬かせた。
「……できた?」
「少しだけ」
「少しだけか」
「少しだけだ」
「そこはもうちょっと褒めろよ」
「死ななかった」
「褒め方が怖いんだよなあ」
カイルは文句を言いながらも、少し嬉しそうだった。
◇
フィリーネは、その様子を黙って見ていた。
セレネの動きは、決して派手ではない。
むしろ、抑えている。
体調を考えて無理をしていないのもあるだろう。だが、それだけではない。彼女は必要以上の力を使わず、カイルに分かる速度と距離で動いている。
相手を圧倒するための稽古ではない。
相手を折るための稽古でもない。
生き残らせるための稽古だった。
退くこと。
待つこと。
味方の邪魔をしないこと。
自分一人で勝とうとしないこと。
どれも、戦場で生き残るためには必要なことだ。
だが、若い戦い手ほど軽く見がちなことでもある。
フィリーネは胸の奥に、小さな痛みを覚えた。
かつて、似た教え方を見たことがある。
強い者を作るのではなく、生還者を増やす教え方。
勝利より先に、戻る道を覚えさせる声。
その記憶は、はっきりとした映像ではなかった。
古い記録の紙をめくるように、断片だけが残っている。
それでも、そこに重なるものはあった。
「……相手を生かすための教え方」
小さな呟き。
隣にいたアシュレイが、フィリーネを見た。
「フィリーネ様」
「何でもありません」
「記録しますか」
「今の言葉は、まだ記録しないでください」
「承知しました」
アシュレイは素直に頷いた。
以前なら、理由を問うたかもしれない。
だが今は、フィリーネが記録に残すものと残さないものを選んでいる理由を、少し理解し始めていた。
フィリーネはセレネを見る。
銀白の髪が、ローデルの昼の光に揺れている。
その姿は少女で、声も若い。
けれど、彼女の教える内容だけが、時間の外から届いているようだった。
まだ呼べない名が、胸の奥に沈む。
フィリーネはそれを、今日も口にしなかった。
◇
稽古が終わる頃には、カイルは地面に座り込んでいた。
息は上がっている。
全身に土がつき、髪にも木くずが絡んでいる。
大きな怪我はない。
ただし、心は何度も折られかけたようだった。
「地味なのに、めちゃくちゃ疲れる……」
「無駄に動くからだ」
「それを直す稽古だろ」
「そうだ」
「じゃあ疲れるのは仕方ないだろ」
「少しはな」
セレネは木棒を元の場所へ戻した。
ミレアが水を持って近づく。
「二人とも、終わり」
「俺はもう動けない」
「よく言えました」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ミレアはカイルに水を渡し、次にセレネを見る。
「あなたは」
「問題ない」
「息は?」
「乱れていない」
「脚は?」
「少し重い」
「少しで済んだなら合格」
ミレアはそこで、ほんの少しだけ笑った。
「ちゃんと加減したのね」
「条件だったからな」
「ええ。守れてえらい」
「子ども扱いか」
「休めない人は子ども扱いされます」
セレネは言い返そうとして、やめた。
カイルが水を飲みながら、こちらを見る。
「なあ、セレネ」
「何だ」
「俺、今日のやつ、続けてもいいか」
「続ける気があるなら」
「ある」
「なら、最初は足だけだ」
「また地味なやつだ」
「地味なものほど、崩れると死ぬ」
「……分かった」
カイルは珍しく素直に頷いた。
その目には、朝より少しだけ落ち着きがあった。
前に出たいという気持ちは消えていない。
悔しさもあるだろう。
だが、それを抱えたまま、別の動き方を覚えようとしている。
それは、悪くない変化だった。
◇
夕方、カイルは北柵の内側で一人、足元の線を見ていた。
訓練に使った線は、もう半分ほど薄れている。
人が通ればすぐに消える程度のものだ。
それでも、そこに立つと、身体が思い出す。
前に出すぎない。
戻れる分だけ出る。
味方の槍筋を塞がない。
守る時の勝ちは、倒すことではない。
カイルは槍を軽く構えた。
今度は踏み込まない。
半歩だけ出て、すぐ戻る。
横へ一歩空ける。
それだけの動き。
だが、朝とは少し違っていた。
「まだやってるの?」
ミレアの声がした。
カイルは慌てて槍を下ろす。
「ちょっとだけ」
「今日は休みなさい」
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってる」
ミレアは近づいてきて、足元の線を見る。
「難しかった?」
「すごく地味だった」
「それは見てた」
「でも、たぶん大事なんだと思う」
「そう」
「俺、あの夜、前に出なかったことをずっと考えてた。逃げたみたいで嫌だった。でも今日、少しだけ違うかもって思った」
「違う?」
「出ないことも、動きの一つなんだなって」
ミレアは少しだけ目を細めた。
それは、どこか安心したような表情だった。
「いい稽古だったみたいね」
「心はちょっと折れた」
「それはセレネにあとで言っておく」
「いや、言わなくていい! また何か正論が飛んでくる!」
カイルが慌てると、ミレアは小さく笑った。
◇
その夜、セレネは広場の端に座っていた。
訓練で使った木棒は片づけられ、地面の線もすでにほとんど消えている。
けれど、昼間のやり取りはまだ頭の中に残っていた。
カイルは変わろうとしている。
あの若者は、ただ強くなりたいだけではない。
守れなかった悔しさと、守れたことへの戸惑いを抱えたまま、自分の足場を探している。
それは、少し見覚えのある姿だった。
かつて、自分も誰かに同じことを教えたのかもしれない。
あるいは、誰かから教わったのかもしれない。
退く。
待つ。
味方を通す。
死なない位置に立つ。
それらの言葉は、あまりにも自然に口から出た。
自然すぎて、少し怖い。
「隣、いいですか」
フィリーネの声だった。
セレネは振り向く。
「好きにしろ」
「では」
フィリーネは少し距離を空けて座った。
その距離は、近すぎず、遠すぎない。
「今日の稽古、見ていました」
「見られていたな」
「はい」
「変だったか」
「いいえ」
フィリーネは静かに答えた。
「とても、よい稽古でした」
「カイルは不満そうだった」
「若い戦い手は、派手な技を教わりたがるものです」
「そうだな」
「でも、あなたはそれを教えなかった」
「先に死なないことを覚えるべきだ」
「そうですね」
フィリーネの声は、少しだけ低くなった。
「あなたは、相手を生かす教え方をするのですね」
「そうなのか」
「少なくとも、今日のあなたはそうでした」
「意識したわけではない」
「だからこそ、そうなのだと思います」
セレネは返答に困った。
フィリーネの言葉は、時々こちらの奥に届きすぎる。
責めているわけではない。
詰問でもない。
ただ、静かに置かれた言葉が、自分の中にある空白へ落ちていく。
「私は、誰かにそう教えていたのか」
セレネは呟いた。
フィリーネはすぐには答えなかった。
夜風が、広場の火を揺らす。
遠くでカイルの笑い声が一度聞こえ、それから建物の奥へ消えた。
「それは」
フィリーネはゆっくりと言った。
「いつか、あなたが知りたいと思った時に、一緒に確かめればいいことです」
「お前は本当に待つのだな」
「待つと決めましたから」
「難しいだろう」
「難しいです」
「正直だな」
「正直でなければ、待つことはできません」
セレネは少しだけフィリーネを見た。
この女は、やはり変だ。
知りたいのに聞かない。
確かめたいのに急がない。
感情を持っているのに、相手の前へ押し出さない。
それは強さなのか。
弱さなのか。
セレネには、まだ分からなかった。
「フィリーネ」
「はい」
「私は、知りたいと思うのだろうか」
「もう、少し思い始めているように見えます」
「そうか」
「ええ」
セレネは夜の広場を見る。
ローデルの灯り。
修復された柵。
消えかけた訓練の線。
そして、その向こうにある北の山。
自分が何者だったのかは、まだ遠い。
届かない名も、霧の向こうにある。
けれど今日、自分の口から出た言葉は、確かにどこかから来たものだった。
それを無視することは、もう少しずつ難しくなっている。
セレネは小さく息を吐いた。
「面倒だな」
「ええ」
「否定しないのか」
「面倒なことだと思います」
「変な女だ」
「今日も記録しておきます」
「冗談か」
「少しだけ」
フィリーネの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その笑みは静かで、弱くて、けれど確かに人らしかった。
北の異変から数日が経ち、ローデルは少しずつ日常を取り戻し始めている。
だが、その日常の中で、セレネの中に残されたものもまた、静かに輪郭を持ち始めていた。