第21話 ローデルの朝仕事
北の異変から一日が過ぎた。
ローデルの朝は、いつも通りには戻っていない。
けれど、止まってもいなかった。
北柵の前には、折れた木材が積まれている。
白靄を浴びた布や縄は広場の端に分けられ、火桶は中身を入れ替えられた状態で並んでいた。見張り台の下では、交代を終えた者たちが薄い粥を受け取り、静かに腰を下ろしている。
誰も大声では笑わない。
だが、誰も俯いたままではない。
セレネは広場の端に立ち、その様子を見ていた。
戦場の後始末に似ている。
最初にそう思った。
壊れたものを分ける。
使えるものを拾う。
汚染されたものを隔離する。
動ける者から順に役割へ戻す。
やっていることだけを見れば、昔の戦場と変わらない。
けれど、空気が違った。
ここにいる者たちは、次の命令を待つ兵ではない。
今日をどうにか続けるために手を動かしているローデルの人々だった。
「セレネ」
背後から声がした。
振り向くと、ミレアが帳面を片手に立っていた。
いつもより髪をきつくまとめ、袖もまくっている。朝からずっと動いていたのだろう。頬には疲れが残っているが、目はしっかりしていた。
「起きてたのね」
「寝ていた方がよかったか」
「できれば」
「無理だな」
「知ってた」
ミレアは短く息を吐いた。
「体調は?」
「昨日よりはいい」
「胸は」
「深く吸うと少し痛む」
「脚は」
「重いが動く」
「つまり、休みなさい」
「今の流れでそうなるのか」
「なるのよ」
ミレアは帳面を閉じ、セレネの前に立つ。
「今日は前に出ない。北側確認にも出ない。荷運びも、柵の修復も、水桶運びもなし」
「では何をする」
「休む」
「それは、何をすることだ」
ミレアが一瞬だけ黙った。
それから、額に手を当てる。
「……本気で言ってる?」
「休むという行動の具体性がない」
「横になるとか、座るとか、ぼんやりするとか」
「ぼんやり」
「そう。何も考えない」
「難しいな」
「でしょうね」
ミレアは諦めたような顔をした。
「じゃあ、せめて邪魔にならない場所で座っていて。何かしたくなっても、誰かに確認してから」
「分かった」
「本当に?」
「たぶん」
「一番信用できない返事ね」
そう言い残して、ミレアは広場の中央へ戻っていった。すぐに別の者に呼ばれ、木材の置き場所を指示し始める。
セレネはしばらくその背中を見ていた。
休む。
何もしない。
それは、やはり難しい。
◇
しばらくして、カイルが木材を抱えて通りかかった。
太いものを二本、細いものを三本。
明らかに抱えすぎている。
案の定、歩きながら一本がずり落ちかけた。
「落ちるぞ」
「うわっ、分かってる!」
分かっていない動きだった。
セレネは反射的に手を伸ばし、落ちかけた木材を受け止める。ついでに、カイルの腕の中で斜めに崩れていた残りの木材も、重心が揃うように組み替えた。
カイルが目を丸くする。
「……今、何した?」
「崩れないようにした」
「いや、それは分かるけど、手つきが早すぎるだろ」
「遅いと落ちる」
「そうだけどさ」
カイルは腕の中の木材を見下ろした。
たしかに、さっきよりずっと安定している。
「すごいな。これ、持ちやすい」
「重いものを下へ。曲がったものは外へ。端を揃えれば崩れにくい」
「雑用にも戦術あるのかよ」
「あるだろう」
「いや、そこまで考えたことない」
カイルは少し得意げに木材を抱え直した。
「でも今日は、セレネは休みだろ。ミレアさんが言ってた」
「手を伸ばしただけだ」
「その言い訳は弱いと思う」
「そうか」
「そうだな」
カイルは少し考え、それからにやりとした。
「どうしても暇なら、俺の仕事を見て学ぶか」
「お前の?」
「そう。ローデル雑務の先輩として教えてやる」
「大丈夫なのか」
「今、疑ったな」
「疑った」
「そこは隠せよ」
そう言いながら、カイルはセレネを作業場の方へ連れていく。
作業場といっても、広場の一角に木材と道具が並べられているだけだ。北柵から外された板、折れた杭、使える釘、使えない金具。どれも混ざったまま積まれている。
カイルは胸を張った。
「ここで使える木と使えない木を分ける」
「基準は」
「えーと、折れてないやつ」
「甘い」
「早いな」
セレネは木材の山を見た。
完全に折れたもの。
表面だけ焦げたもの。
白靄を浴びた可能性があるもの。
内部が湿っているもの。
まだ芯が残っているもの。
混ざっていると面倒だ。
セレネは近くの棒を取り、地面に三つの線を引いた。
「使えるもの。削れば使えるもの。捨てるもの」
「おお」
「白い粉がついたものは別だ。燃やすか、隔離するか決めるまで混ぜるな」
「お、おお」
「釘は曲がりで分ける。まっすぐなものは再利用。曲がったものは直せるか確認。錆びているものは別」
「待て待て待て」
カイルが慌てて手を振る。
「急に本格的になった」
「分けるだけだろう」
「分けるだけの解像度じゃないんだよ、それ」
「そうか」
セレネは木材を一本拾い、軽く叩いた。
音が鈍い。中が湿っている。
「これは駄目だ」
「見ただけで分かるのか?」
「音が悪い」
「木材とも戦えるのか、おまえ」
「戦わない」
「そういう意味じゃなくて」
カイルが呆れたように笑う。
けれど、すぐに周囲の者たちも興味を持ち始めた。
セレネが示した分け方は、単純だが分かりやすい。使えるものと使えないものが一目で分かるようになる。
気づけば、作業場の数人がセレネの引いた線に従って木材を分け始めていた。
「これは削れば使える方か?」
「白い粉が少しついてるぞ。別にしろって」
「この釘、曲がってるけど直せるか?」
「カイル、聞いてこい」
「何で俺が」
カイルが文句を言う。
「先輩だろう」
セレネが返す。
「都合のいい時だけ認めるな」
文句を言いながらも、カイルは釘を受け取り、別の山へ分けた。
作業の流れが少しずつ整っていく。
セレネは、それを見ていた。
戦場の配置とは違う。
けれど、人が迷わないように道を作るという意味では、少し似ているのかもしれない。
◇
「セレネ」
低い声がした。
振り向くと、ミレアが立っていた。
笑っていない。
「何をしているの」
「座ってはいない」
「見れば分かるわ」
「確認してから動けと言われた」
「誰に確認したの」
「カイル」
「カイル」
ミレアの視線がカイルへ向く。
カイルは木材を抱えたまま、分かりやすく目を逸らした。
「俺は、見学くらいならって」
「見学」
「最初は」
「最初は、ね」
ミレアは深く息を吐いた。
だが、作業場の様子を見て、少しだけ表情を変えた。
木材は前よりずっと分かりやすく分けられている。白靄を浴びたものも混ざらずに隔離されている。釘や金具も、使えるものから順に箱へ収められていた。
「……助かってるのが、腹立たしいわね」
「なら問題ないか」
「あるわ。助かっていることと、あなたが休んでいないことは別」
「フィリーネもそう言っていた」
「そうでしょうね」
ミレアは少しだけ目を細めた。
「昨日も言われたの?」
「ああ。動けることと問題ないことは別だと」
「正しいわね」
「お前たちは似たことを言う」
「まともな人間はだいたいそう言うのよ」
そう言ってから、ミレアはセレネの顔を覗き込んだ。
「息は」
「浅くない」
「胸は」
「今は痛くない」
「脚は」
「少し重い」
「じゃあ、ここまで。あとは座る」
「まだ分別が」
「座る」
「……分かった」
セレネは棒をカイルへ渡した。
「三つに分けろ。迷ったら白い粉がついているものは別。音が鈍い木は使うな」
「急に任された」
「先輩だろう」
「こういう時だけ本当に便利に使うな!」
カイルの声を背に、セレネはミレアに連行されるように作業場を離れた。
◇
広場の反対側では、フィリーネが白靄を浴びた布の分別を見ていた。
彼女は今日も整った外套をまとっていたが、昨日ほど形式ばった雰囲気ではない。袖口を少しだけ上げ、手袋をした手で布の束を確認している。
近くの女が慌てたように言った。
「フィリーネ様、そこまでなさらなくても」
「触れてよいものと、触れない方がよいものの確認だけです」
「でも、記録保全局の方にこんな雑用を」
「現場を記録するなら、現場の邪魔をしないことも仕事です」
静かな声だった。
責めるでも、飾るでもない。
本当にそう思っている声。
ミレアがセレネを連れて近づくと、フィリーネは顔を上げた。
「セレネさん。体調は」
「その質問をする者が増えたな」
「必要な確認です」
「今のところ問題ない」
「動ける、という意味ではなく?」
「……今のところ問題ない」
少し言い直すと、フィリーネは小さく頷いた。
「ならよかったです」
「お前も布を分けるのか」
「少しだけ。白靄の残留が強いものと、単に汚れただけのものを分けています」
「分かるのか」
「測定具を使えば、おおよそは」
フィリーネは手元の小さな器具を見せた。
淡い金属枠の中に、薄い結晶片のようなものが収まっている。白靄に近づけると、かすかに曇るらしい。
「便利だな」
「万能ではありません。濃い反応には使えますが、薄い痕跡は見落とします」
「なら、見た方が早い」
「あなたなら、そうなのでしょうね」
フィリーネは穏やかに言った。
その言葉には、皮肉はなかった。
ただ、認めているような響きがあった。
セレネは少しだけ返答に困る。
ミレアが横から口を挟んだ。
「フィリーネさんまで手伝っていると、他の人が休めなくなりますよ」
「そうですね。では、確認だけに留めます」
「お願いします。偉い人が働いていると、みんな焦るので」
「肝に銘じます」
フィリーネは素直に引いた。
その様子を見て、セレネは少し意外に思った。
上の立場の人間ほど、自分の善意を押し通すことがある。フィリーネにはそれがない。
踏み込みすぎない。
けれど、離れすぎもしない。
昨日から感じていた印象は、今日も変わらなかった。
◇
昼前になる頃には、広場の空気が少しだけ変わっていた。
壊れたものは分けられ、捨てるものは南側の空き地へ運ばれ、使える木材は北柵の修復へ回される。白靄を浴びた布はフィリーネとアシュレイの確認を受け、強い反応のものだけ別に隔離された。
完璧ではない。
だが、道筋はできた。
セレネは広場の端に座らされていた。
手元には、薄い粥の入った器がある。
ミレアが置いていったものだ。
「食べてますか、見てますか」
フィリーネの声がした。
いつの間にか隣に立っている。
「見ていた」
「食べてください」
「お前もミレアに似てきたな」
「それは良いことですか」
「たぶん」
セレネは器を持ち、少しだけ粥を口に運んだ。
味は薄い。
だが、温かい。
フィリーネは隣に座らず、少し距離を空けたまま立っていた。
それが気遣いなのか、癖なのかは分からない。
「朝から、よく見ていましたね」
「何を」
「人の動きです。木材の分け方も、動線も」
「見れば分かる」
「普通は、そこまで見ません」
「そうなのか」
「ええ」
フィリーネは広場へ視線を向けた。
「あなたは、戦場ではない場所でも、場の流れを見るのですね」
「そういうものだと思っていた」
「そうですか」
短い沈黙。
セレネは粥の器を見下ろす。
「お前は、記録しないのか」
「何をですか」
「今のことを」
「必要ならします」
「必要ではないのか」
「少なくとも、今すぐ紙に閉じ込める必要はないと思っています」
セレネは顔を上げた。
フィリーネは静かに続けた。
「記録は大切です。失われれば、二度と戻らないものもあります。けれど、目の前で生きている人を、急いで記録の形に押し込める必要はありません」
「……よく分からない」
「私も、まだ上手くは言えません」
フィリーネは少しだけ困ったように笑った。
その表情は、昨日の面会の時より柔らかかった。
「ただ、今のあなたは、ここで粥を食べているセレネさんです。それを忘れないようにしたいのです」
「変な女だな」
「昨日も言われた気がします」
「たぶん、これからも言う」
「覚悟しておきます」
会話はそこで切れた。
不思議と、嫌な沈黙ではなかった。
◇
午後、北柵の仮修復が一段落した。
完全ではない。
だが、昨日よりはずっとましになった。
カイルは腕をだらりと下げ、木箱に腰を下ろしていた。
顔には疲れが出ているが、どこか満足そうでもある。
「どうだ、先輩の仕事ぶりは」
「よく働いた」
「お、素直」
「途中で木材を逆に積んでいたが」
「そこは忘れろ」
「記録保全局に頼めば残るぞ」
「やめろ!」
カイルが慌てる。
近くにいたアシュレイが真顔でこちらを見た。
「必要であれば、作業記録に」
「必要ないです!」
「そうですか」
「何でちょっと残念そうなんだよ」
そのやり取りに、周囲の者が少し笑った。
朝にはなかった笑いだった。
セレネはそれを聞きながら、広場を見た。
完全に戻ったわけではない。
北の遺構はまだ沈黙しているだけだ。
白靄の残りも消えてはいない。
フィリーネがローデルに残る以上、これから何かが動くのだろう。
それでも、今この場所には、朝仕事を終えた人々の疲れと安堵がある。
戦場の後始末に似ている。
けれど、やはり違う。
ここでは、片付けたあとにまた暮らしが続く。
セレネは自分の手を見た。
昨日は短剣を握り、白い核を折った手。
今日は木材を分け、粥の器を持った手。
どちらも同じ自分の手だ。
そのことが、少し不思議だった。
ミレアが隣へ来る。
「今日は、まあまあ休めたわね」
「休めた判定なのか」
「完全に働いてたけど、倒れるほどではなかったから、まあまあ」
「基準が緩い」
「あなた相手に厳密な基準を持ち込むと疲れるのよ」
ミレアはそう言って、北柵の方を見る。
「でも、助かったわ」
「休めと言っただろう」
「助かったことと、休んでほしかったことは別」
「便利な言い方だ」
「あなたに合わせてるの」
セレネは少しだけ目を細めた。
「ローデルは、変な場所だな」
「今さら?」
「今さらだ」
「悪い意味?」
「分からない」
そこで一度言葉を切る。
広場では、カイルがアシュレイに何かを言い、アシュレイが真面目に返している。
フィリーネは少し離れた場所で、住民の邪魔にならないように記録具を片付けている。
皆、昨日とは違う疲れ方をしていた。
セレネも同じだった。
身体は重い。
けれど、昨日とは違う重さだった。
誰かを守るために無理をしたあとの重さではない。
誰かの隣にいるために手を動かしたあとの重さ。
それは、悪くない。
「悪くはない場所だ」
セレネは小さく言った。
ミレアは何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
北の異変から一日が過ぎ、ローデルは少しずつ、戦いの後始末を日常の形へ戻し始めていた。